◇◆◇日々のみ言葉
2024年8月28日(水)
◎聖書箇所【第Ⅰコリント人への手紙8章7節~9節】
8:7 しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。
8:8 しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。
8:9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。
◎ショートメッセージ
《昨日と同じ箇所からとなります。再度になりますが、現代訳を掲載します。
『8:7 しかしながら、すべてのクリスチャンがこれと同じ知識を持っているわけではない。ある人たちは、救われるまで、偶像を生きているもののように考えてきていたので、偶像にささげた肉を、異教の神にささげたものとして考えてしまい、それを食べると、良心が傷つくのである。
8:8 しかし食物は私たちが神に近づくことには何も関係が無いもので、食べても食べなくても、信仰とは直接関係がない。
8:9 ただ、あなたがたのすることが、信仰の弱い人たちのつまずきにならないように気を付けることである。』
偶像に捧げられた肉とは、実際に偶像礼拝の祭壇に捧げられ、しばらくその場所に置かれた物ではありません。もし、そうだとしたら、すぐに腐敗してしまいます。それゆえ、父なる神様は、イスラエルの礼拝に、「全焼の捧げ物」という形を取られたのです。
コリントの肉屋で売っている物は、鮮度はかなり良かったと思われます。もちろん焼いた肉ではなく、牛や羊を解体したばかりの新鮮な肉であったことは間違いありません。 その肉を、おそらくアルテミスやダイアナ神の木彫りの偶像に捧げる祈りをした後に、店に出すと思われま。パウロは、食べても、食べなくとも信仰には直接関係がないと言っています。
しかし、信仰の賜物は、それぞれが違っています。大きな信仰の持ち主がいれば、生まれたばかりの小さな信仰の持ち主もいるのです。
それだからこそ、信仰の弱い人、あるいは、まだ信仰の育っていない人をつまづかせてはならない、とパウロは忠告しているのです。
信仰暦の長い人は、信仰を持ったばかりの幼い魂のことを、軽蔑することなく、暖かな愛の御手を持って、導いて行くべきだと思います。
私は、前の教会で失敗してしまいましたが、今は、細心の注意を払っています。》