• 日々のみ言葉 2015年10月7日(水)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年10月7日(水)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書6章31節~32節】

    6:31 そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。
    6:32 そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。

    ◎ショートメッセージ

    《『さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。(マルコの福音書6:30)』

     弟子たちは、主イエスに、二人ずつ、合計6チームとして、様々なユダヤの町々に津遣わされていた。もちろん6チームあるわけで、彼らは、どこの町に行こうか、あるいはどこの地方に行こうか、12人で相談し示し合わせたことは間違いない。行き当たりばったりでは、チームが重なったりして、宣教の効率が悪いからである。

     あるいは、主イエスが、6チームの行き先を、ある程度指し示したのかも知れない。どちらにせよ、主イエスは、父なる神からのご指示を受けていたはずである。彼らの行くべき町々は、すでに主イエスご自身も分かっており、また彼らを迎え入れる平安の子の存在する家々も、すでに選ばれていた、と私は信じる。

     そして、いよいよカペナウムのシモン・ペテロの家に集合する日が来た。使徒たち全員が、再び顔合わせする日が来たのである。この時、弟子たちは、疲れていても、懸命にカペナウムを目指し、走って来たと思われる。
     おそらく、ぎりぎりまで、方々の町々で、人々のニーズに合わせてミニストリーを行なったはずである。もしかしたら、彼らの後を、人々が追いかけて来たのかも知れない。

     その追いかけて来た人々が、カペナウムのシモン・ペテロの家に殺到したとも考えられる。それゆえ、シモン・ペテロの家は、人の出入りが多かったのだ。彼らには、「食事をする暇もなかった。」とある。シモンの姑やシモンの妻が、おいしい食事を用意していたはずである。彼らは順番に、主イエスに自分たちのして来たこと、見て来たことを報告したのだ。もちろんお互いのチームの報告を、聞きあったはずだ。どのチームが、一体どれほどのことをやり遂げたのだろうか。俺たちのチームが一番だとか。

     さて、6チーム全員の報告が終わった。その時、弟子たちは疲れを覚えたのである。
    お腹も空き、また使命をやり遂げた後に来る、霊的疲れを覚えたのである。彼らには、静まる時が必要であった。それゆえ主イエスは言われたのだ。

    「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」

     この言葉は、使徒たちだけではない。主イエスのこの言葉は、私たちにも語られている言葉である。

     私たちには、静まる時が必要である。

     当時のユダヤでは、時間がゆっくりと流れていたに違いない。その時でさえ、弟子たちは、よく山に一人で静まっておられた主イエス様のように、静まらなければならない時が必要だった。

     今、現在の私たちは、どうであろうか。時間は、まるで滝のごとく、勢いよく流れて行く。要求されることは、「早く」「早く」「急げ」「急げ」である。いつも時間に、そして何かに追いまくられている。

     私たちには『休息』が必要である。休みが必要である。体の疲れは、多くの睡眠を取れば、やがて取れる。しかし、私たちは霊的存在である。本当の私である霊も、本当のあなたである霊も、疲れるのだ。その疲れを取るには、いやされるためには、ひとり静かに心静まり、主イエスのみ言葉を思い巡らす時が必要なのである。

     良く言われるではないか。「病は気から」と。この「気」こそが、「気持ち」の気であり、その「気」はどこから来ているかと言えば、私たちの「霊」から来る。
     本当の私である「霊」が疲れ切っていたとしたら、どんなに体が健康であったとしても、やがて何かの支障をきたしてくることとなる。
     反対に、体が不健康であったとしたら、同じく、健康な「霊」であっても支障をきたすことになると、尾山令仁先生は言われる。私たちは、「霊」「たましい」「肉体」の、三つが一つとなった、まさに「三位一体」の存在なのである。

     この時の弟子たちは、霊的にも、肉体的にも疲れ切っていた。それゆえ主は、彼らを休ませるために、舟に乗せたのである。この舟は、シモン・ペテロの持舟であった。

     彼らは、舟の中で、遅くなった食事をし、そしてしばらく体を横たえたに違いない。ガリラヤ湖の、清々しい空気の中で、心地よい風に、今少しの休息を得たのである。
     しかしこの後、彼らに過酷な労働が待っていようとは、誰一人思う者はいなかった。ただ主イエスだけは、ご存じであられた。》  

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