◇◆◇日々のみ言葉
2015年10月8日(木)
◎聖書箇所 【マルコの福音書6章33節~34節】
6:33 ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。
6:34 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。
◎ショートメッセージ
《『そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。(マルコの福音書6:31~6:32)』
何と、この舟には、主イエス様も乗っておられたのである。驚きである。いや、そうではなく、主イエスは、十二使徒だけを先に舟に乗せて行かせたかも知れない。ご自身は、他の弟子たちと共に別の舟で、彼らの後について行ったとも考えられる。
どちらにせよ、カペナウムのシモン・ペテロの家の回りを囲んでいた多くの群衆の人々は、舟の後をつけ、主イエスの一行の目的地をあらかじめ予測し、徒歩で駆けつけ、追いついてしまったのである。
それほど、群衆の彼らも必死であったのだ。あるいは、主イエスの教えに飢え乾いていたのだ。
『人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。(マルコの福音書1:22~1:28)』
すでに、この時点では、主イエスの評判と名声は、ガリラヤ全地の至る所に広まって、シモン・ペテロの家は、もう観光名所のようになっており、いつ主イエスがお帰りになるのか、お戻りになるのかと、多くの人々が様子をうかがうほどになっていた。
そして見張っていた甲斐もあって、使徒たち全員が戻って来たことが分かった。またどうやら主イエスも、シモンの家に、いつの間にか戻って来ていたらしい。このことが群衆に知れ渡ってしまったのである。
主イエスは、舟から上がられた。もちろん十二使徒たちも舟から降りたはずである。
さて、主イエスは、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。
この「多くの群衆をご覧になった。」と言うことは、どういうことであろうか。主イエスは、まことの人であって人ではない。創造主なられるお方である。神であるお方は、今、ご自身が造られた一人一人を見られたのだ。主イエスの前には、たとえどんな人であっても、「十把一絡げ」ではない。一人一人が、主イエスに取っては、大切な存在なのだ。私たちもそうである。私も。あなたも。主イエスの前に、価値のない人は誰もいない。
次に、「彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれ」とは、どういうことか。この群衆は、まさしくさ迷える羊なのである。彼らには羊飼いがいない。導く人がいない。いや、そうではない。彼らは、目の前におられるお方が、『まことの羊飼い』
であられるお方、そう「メシヤ」なるお方、助け主であるお方、キリストであることを知らないのだ。
そう。天地を創造された神なる方は、今、目の前におられるのである。それに気づかない群衆である人々。
それゆえ、主イエスは深く哀れまれたのである。そして教えられたのである。この時、主イエスが群衆に何を話されたのかは、マルコは書き記してはいない。
しかしルカは、短くその平行記事に書き記している。
『さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。(ルカの福音書9:10~9:11)』
主は、「神の国」のことを話された。そればかりではない。いやしの必要な人たちをおいやしになられたのである。この時、主イエスから権威を分与された十二使徒たちも、多くの人々の病をいやした、と私は思う。
そうこうしているうちに、日も暮れ始め、夕焼けに包まれて、また新しい一日が始まろうとしていた。いよいよ、4つの福音書のすべてに書き記されている、主イエスの行なわれた最も重要な意味を持つ奇蹟の時が、訪れようとしていた。》