◇◆◇日々のみ言葉
2015年10月6日(火)
◎聖書箇所 【マルコの福音書6章30節】
6:30 さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。
◎ショートメッセージ
《二人ずつ、合計6チームに分かれて、主イエスから、ユダヤ人の町々に遣わされた使徒たちが、主イエスの御もとに戻って来た。
ここで、ひとつのことを考えて見よう。まず主イエスは、どこで弟子たちを遣わされたのか。
『イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。
また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。(マルコの福音書6:6~6:7)』
そうである。故郷ナザレを出て、近くの村々を教えて回られた後である。
当然、その遣わされた期間と、集合場所は定められていたはずである。そうでなければ、行き違いとなってしまう可能性があるからだ。今のように、お互いに携帯電話やスマートフォンを持っていて、連絡を煩雑に取っていてさえ、勘違いから、すれ違ってしまうことがあるくらいである。二千年ほど前の当時では、そんなものは何一つない。頼りとなるのは、「口コミ」だけである。
さて、この後「五千人の給食」の奇蹟を主イエスは起こされる。ということは、ガリラヤ湖の側にいるということだ。そうだとすれば、カペナウムのシモン・ペテロの家が主イエスと使徒たちの待ち合わせの場所であることは、確定的である。
主イエスは、ご自身の権威を弟子たちに授けられ、その間にカペナウムに戻って来られた。この時は主イエスお一人であったか、または十二使徒以外の弟子たちがお側についていたのかは、分からないが、もしかしたら主イエスは、しばらくの間、一人になられて、父なる神と交わり休息の時を持っておられたのかも知れない。
なぜなら、この後に、4つの福音書すべてに書き記されている、特別な意味を持つ「奇蹟」を行なわれるからである。
尾山令仁先生は言われる。4つの福音書に書かれている奇蹟は、3つあると。すなわち、「五千人の給食」「主イエスの十字架」「主イエスの復活」である。
ここで、なぜ「主イエスの十字架」が奇蹟であるのかと言うと、創造主である神の御子が、造られたものに過ぎない人間の手によって、殺されるということは、奇蹟以外の何物でもない、とのことである。
さて、使徒たちは、定められた期間の実地訓練あるいは実習を終えて、意気揚々として、次々にカペナウムのシモンの家に集まって来た。そして主イエスに、自分たちのしたこと、教えたことを報告したのである。
さあ、ここでも大切な学びの一つがある。
弟子たちは、主イエスに報告したのである。おそらく主イエスは、目を輝かせ、そして微笑みながら、うなずきながら、時には手を打ち鳴らし、時には大声で笑われ、弟子たちの報告を聞かれたのである。いや聞いてくださったのだ。
私たちはどうか。私たちは、その日の出来事を、主イエスにいつも報告しているだろうか。主イエスの御もとに戻って来て、報告する、いや主イエスに話しかけているだろうか。
弟子たちは、もうカペナウムが待ち遠しくて、待ち遠しくて、早く主イエス様にお会いしたい、どっちが先に話そうか、いや他の仲間が、もしかしたら、もう到着していて、主イエス様に報告しているかも知れない。いや、俺たちが一番かも知れない。そう思いながら、シモン・ペテロの家に急いだに違いないのだ。
主イエス様とて同じことである。ご自分の遣わされた弟子たちが、無事に戻って来るだろうか、そしてどんなことをしたのか早く聞きたいものだと、待っておられたのだ。
主イエスは、いつも待っていてくださる。私たちが報告することを。私たちが、主イエス様に話しかけることを。
主イエスは言われた。
『見よ。私は、戸の外に立ってたたく。誰でも、私の声を聞いて戸をあけるなら、私は、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼も私とともに食事をする。(ヨハネの黙示録3:20)』
私たちには、私たちと食事を楽しみにしておられ、話を聞きたいと待っておられるお方がいる。私たちは、決して孤児ではない。ひとりぼっちではない。このお方は、いつでも、いつも、どんな時でも、私たちが話しかけるのを、今か、今か、まだか、まだか、と待っていてくださるのである。》