◇◆◇日々のみ言葉
2015年10月10日(土)
◎聖書箇所 【マルコの福音書6章37節】
6:37 すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」
◎ショートメッセージ
《『そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」(マルコの福音書6:35~6:36)』
『弟子たちは、夕方となり、日も暮れかかったので、主イエスにお願いしたのである。何を。それは、この群衆を解散させて欲しいと言うことであった。それで、主イエスにこう言ったのだ。「近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」と。
ここに、弟子たちの確信していたことがあった。それは、主イエスならば、この群衆を解散させることが出来たということ。そして、自分たちで食事を調達させるように仕向けることが、出来たということを。それだからこそ、お願いしたのである。
この時点での主イエスの評判は、本当に相当なものであった。群衆は、ローマ帝国から、イスラエルをユダヤ人を解放してくださる「メシヤ」として、主イエスに絶大の信頼を寄せていたのである。
この時の群衆は、男性が五千人、そしておそらく女性と子どもをあわせて、二万人ほどであったと言われている。当時のユダヤでは、男性だけの数を数えることが慣習であった。
弟子たちは、自分たちの気持ちと、今置かれている群衆の状況を鑑み、主イエスは、当然、期待通りの答えをして下さると確信していた。
ところが。
主イエスの答えは、彼らに取っては信じがたいものであり、また常識的に考えても受け入れることの出来ないものであった。
「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
ここは、人里離れた場所。へんぴな所。
今なら日本全国、どこへ行っても、24時間営業のコンビニエンスストアがあって、容易に買いに行けるであろうが。しかし二万人分の弁当ともなると、今現在でも、突然そう言われたとしたら、頭を抱えてしまうのが普通ではないだろうか。
弟子たちは、驚いた。そればかりではない。彼らは、主イエスに文句を言ったのである。
「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」
この言葉を語ったのは、一体誰であろうか。大体は、短気なペテロが先に発するが。ヨハネの福音書によれば、それはピリポであったとされている。
「デナリ」とは、 ローマ帝国の銀貨である。当時はパレスチナでも使用されていた。ユダヤ人がローマへ納税する時にはこのデナリ銀貨が用いられ、これにはカイザルの肖像が刻まれていた。デナリはギリシヤのドラクマ銀貨と同額で、当時最もよく使われた通貨であった。1デナリは労務者1人の1日の労賃に相当するものであった。ローマの兵卒の年俸は300デナリであったと言われる。デナリを日本円に換算することは可能であろうが、時代的な隔たりもあり、むしろ、1デナリは労務者1人の1日分の賃金と考える方がより正確である。
ここでは、二つの場合が考えられる。一つは、弟子たちが、その時、主イエスの宣教資金として、二百デナリを持参していたと言うこと。もう一つは、二万人の群衆にパンを買い与えるには、少なくとも二百デナリは必要である、ということである。
どちらの場合も考えられると思う。
主イエスも、そして十二使徒たちも、自分たちの本来の仕事を捨てて、「神の国」の為に、フルタイムで働いていたわけである。もちろん生きて行くには、食物や飲み水は必要であるし、休むためには、宿に泊まる必要もある。その為には、今と同じで、お金が必要なのは、当然のことである。
私たちは仙人ではない。仙人は、霞を食べて生きて行けるかも知れないが、生身の体を持つ者なのだ。当然水も食物も、そして睡眠も休息も不可欠なのである。主イエスも、神の子であられると同時に、私たちと同じ人間であられた。
それゆえ、十二使徒たちは、宣教資金を持っていたのだ。この資金は、主イエスを慕う者からの援助、あるいは、主イエスによっていやされた人々の、心からの感謝であったことは、たやすく想像がつく。
しかし、この時点でも弟子たちは悟ってはいない。
与えられている金に信頼するのか。それとも主イエスだけを、信頼するのか。》