• 日々のみ言葉 2015年10月11日(日)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年10月11日(日)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書6章38節】

    6:38 するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」

    ◎ショートメッセージ

    《『そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」
     すると、彼らに答えて言われた。
    「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
     そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」(マルコの福音書6:35~6:37)』

     何度も言うようであるが、この群衆はおよそ二万人ほどの人々であった。その人々に主イエスは、「パンがどれくらいあるのか、行って見て来なさい。」と、弟子たちに言われたのである。

     この時には、まだ群衆は、主イエスを中心とし、それぞれの者たちが思い思いの場所に座していたと思われる。その人々の間を走り回って、食べ物があるのか、聞く弟子たちの姿が思い浮かぶではないか。
     弟子たちは、やみくもに聞きに行ったのではない。おそらく十二使徒たちは、ある程度手分けをして、分担し、聞き込みに行ったと考えられる。なぜなら、この時点で、かなり時間が遅くなっていたからであり、切羽詰まっていたからである。

     ヨハネは、その福音書にこのように書き記している。

    『その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。
     大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。
     イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。
     さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。
     イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
     もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
     ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
     弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」(ヨハネの福音書6:1~6:9)』

     何とヨハネは、マタイ・マルコ・ルカの3つの共観福音書とは、少し違う内容を書いているのである。

     それは、弟子たちの方から主イエスに、「群衆に、めいめいで何か食べ物を買うようにさせてください。」とお願いしたのではなく、主イエスの方から、十二使徒の一人であるピリポに、「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」と、聞いたのであった。しかもピリポを試そうとして。

     そこへ、主イエスの最初の弟子となったシモン・ペテロの弟アンデレが、一人の少年を連れて来るのである。そして主イエスに報告するのだ。

    「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

     「五つのパンと二匹の魚」

     これは、当時の一般的な「お弁当」である。おそらく少年の母親が持たせて物であろう。「五つのパン」とは、小さく焼いたパン、もしくは割かれたパンが五切れであった。そして「二匹の魚」とは、干した小さな魚であったらしい。

     主キリストを題材とした多くの映画においては、この「二匹の魚」が、なぜか塩漬けの生の魚が用いられているが、それを食べるには「火」を起こす必要がある。また主イエスが、割くにはかなり難しく、無理がある。よって、私たち日本人が良く食べる「あじの干物」を、一度焼いて冷ましたような物だとしたら、容易に主イエスは割くことが出来たとも言える。

     とにかく群衆は、これしか持っていなかったのである。男の数がおよそ五千人、女と子どもをあわせたとしたら、二万人以上の人々は、何と一人の少年が持っていた「五つのパンと二匹の魚」しか、食べ物を持っていないということになる。

     本当にそうであろうか。誰か一人は、何か食べ物を隠し持っていたとも考えられないであろうか。
     しかし一人の少年は、正直にそして素直に、自分の持っているものを、弟子たちに話したのである。ここに少年の、主イエスに捧げる純心な心と態度を見ることが出来る。私たちも、いつもこのようでありたいものである。

     ともあれ、人を探して来たり、引き合わせたりすることの得意なアンデレは、一人の少年を主イエスの御もとに連れて来た。
     主イエスは、この少年の持っていた「五つのパンと二匹の魚」を用いて、いよいよ偉大な奇蹟を成し遂げるのである。》

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