• 2024年12月1日第Ⅰアドベント礼拝メッセージの概要

    ◎本日の聖書箇所【ルカの福音書7章29節~35節】(新約聖書p.125下段左側)
    7:36 さて、あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。
    7:37 すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。
    7:38 そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。
    7:39 イエスを招いたパリサイ人はこれを見て、「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」と心の中で思っていた。

    ◎メッセージ【パリサイ人の家にて】
    《「ある町」とは、ガリラヤの町であることは間違いありません。あるパリサイ人(後にシモンと言う名前が分かります)が「一緒に食事をしたい」と、主イエスを招きました。なぜ招いたのか、その理由については二つ考えられます。
    一つは、主イエスの教えと、その御わざとに、強い興味があって共に食事がしたいと言う、純粋な理由です。もう一つは、何とかして、主イエスから不利な情報を聞き出し、最高議会に訴える為に招いたと言うことです。
    主はその招きを快く受け入れ、パリサイ人の家に入り、食卓に着かれました。ここで、事件が起こります。「その町に一人の罪深い女」がいたと言うのです。おそらく遊女ではないでしょうか。その女が、主イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知って、香油の入っていた石膏の壺を持って、食卓にやって来たのです。彼女は、「主イエス」の顔と姿を知っていることは明らかです。
    そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗ったのです。なぜ、彼女はこのような行動に出たのでしょうか。考えられることは、以前、主イエスによって、彼女は何らかの病を癒されたのではないでしょうか。そして、今こそ癒されたことへの感謝を表わす時だと考え、香油を主イエスの足下に塗ったのではないでしょうか。
    この記事は、共観福音書においては、ルカの福音書だけに書き記されています。また、マタイとマルコの福音書には、別の似たような記事が書き記されています。良く、その記事が、ルカの記事と同一視すると言う誤解が生じます。
    その記事とは、ベタニアで起こったことであって、ある女が非常に高価な香油の入った小さな壺を持って来て、食卓に着いておられた主イエスの頭に香油を注いだ、と言うことです。
    後に、ヨハネは、この女が、ベタニアのマルタの妹マリアであることを明らかにしています。マリアは遊女ではありません。よって、違う出来事である事が分かります。
    さて、その有様を見た「パリサイ人シモン」は、心の中でつぶやいたのです。「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから。」
    主イエスは、私たちと同じ真の人間でしたが、同時に真の神様でもあられました。よって、一瞬にして主は人の心を読むことが出来るのです。
    パリサイ人シモンは、主イエスを「預言者」とも見ていないことが分かります。また、主に対する蔑視がはっきりと表れています。
    これが人間です。人間は、自分こそが一番正しいと考える者なのです。いわゆる自己中心です。また、すぐにさばきます。パリサイ人シモンが、この女性をさばいたように。
    主イエスこそが、唯一のさばき主なのです。私たちも気を付けなくてはなりません。先走ったさばきは、慎むべきなのです。
    主イエスは、自分にさわっている女がどんな女であるのかを、すべてご存じでした。そして、彼女の罪をも、すべて知っておられました。
    それにもかかわらず、主イエスはその女を愛しておられたのです、実は、私たち一人一人こそが、この女性なのです。主イエスは、私たち一人一人の何もかも知っておられても、愛して下さっています。
    だからこそ、やがて主は、私たちの罪の身代わりとして十字架に掛かって下さるのです。これ以上の愛はありません。人間の愛には限界があります。しかし、主イエスの愛には、限界がないのです。なぜなら、このお方の愛こそが、本物の愛だからです。今日からアドベント(待降節)に入りました。
    今から二千年以上前に、主イエス様がお生まれになられたのです。創造主なる神様が人となって来て下さったのです。何の為にでしょうか。私たちに永遠の命が与えられる為にです。私たちが生きる為に、十字架にかかって死ぬ為にです。私たちは、このお方を信じる者なのです。そして、主の降誕を心から祝う者たちです。》

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