• 2025年8月31日礼拝メッセージの概要

    ※本日の聖書箇所「ルカの福音書10章17節~20節」(新約p.135下段右側)
    10:21 ちょうどそのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現わして下さいました。そうです、父よ、これはみ心にかなったことでした。
    10:22 すべてのことが、私の父から私に渡されています。子がだれであるかは、父のほかはだれも知りません。また父がだれであるかは、子と、子が父を現わそうと心に定めた者のほかは、だれも知りません。」
    10:23 それからイエスは、弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたが見ているものを見る目は幸いです。
    10:24 あなたがたに言います。多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たいと願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けませんでした。」

    ◎メッセージ【見る目は幸い】
    《主イエスは、いつもどのようなお顔をされていたのでしょうか。4つの福音書には、怒られた顔、泣かれた顔、悲しまれた顔については書かれています。まず怒られた顔とは、エルサレムの祭りの時に、弟子たちと共に神殿に巡礼に来た時のことです。
    次に、泣かれた顔ですが、主イエスは二度ほど涙を流されたことが福音書には書かれています。一つ目は、しゅろの日曜日に、エルサレムに巡礼された時に、この都のために泣かれたとあります。そして、ラザロの墓の前において、イエスは涙を流されたと、ヨハネは書いています。
    次に悲しまれたことは、ゲッセマネの園においてのことです。その姿を見たのは、ペテロとゼベダイの子ヤコブとヨハネであったとあります。
    そして、福音書には書かれてはいない、もう一つのお顔があります。それが笑顔なのです。
    『ちょうどそのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。』
    私たちが、喜びにあふれたとしたら、どのような顔をするのでしょうか。満願の笑みになるのではないでしょうか。
    尾山令仁先生は、「主イエスはいつも笑顔であったからこそ、弟子たちや福音書の著者たちは、あえて、主が笑われたことを書き記さなかったのです」と教えられました。
    さて、主は喜ばれると、次に父なる神様を賛美と感謝を捧げられたのです。このように、私たちも、何か喜ばしいことが起こったのなら、主のように、まず神様に感謝を捧げようではありませんか。
    「あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現わして下さいました。」
    「知恵ある者や賢い者」とは、パリサイ人や律法学者たちを指し、「幼子たち」とは、まだ未熟な十二使徒や弟子たちのことを指しています。。
    「これらのこと」とは、72人の弟子たちを通して、ご自身の御名によるしるしと奇跡を行なわれたことを指しています。
    「すべてのことが、私の父から私に渡されています。子がだれであるかは、父のほかはだれも知りません。また父がだれであるかは、子と、子が父を現わそうと心に定めた者のほかは、だれも知りません。」
    これは預言です。最後の晩餐において、主イエスは、弟子たちに、ご自身と父について、明らかにされることを言われたのです。それから主は、弟子たちだけに言われました。
    「あなたがたが見ているものを見る目は幸いです。あなたがたに言います。多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たいと願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けませんでした。」
    これは素晴らしい言葉です。今までに起こされた多くの預言者、そして多くの王たちが見たいと思ったのは、まさしくイスラエルの神、アブラハム・イサク・ヤコブの神であったからです。弟子たちは、その神様を自分たちの目で見ていると言う意味なのです。そして、直にその耳で、神の声を聞いていると言うことです。
    残念ながら、私たちは、今はこの目で、主イエスを見ることは出来ませんが、やがて、この目で、主イエス様を見ることになります。それが次なる預言の成就となる「携挙」なのです。『この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。』とヨブが預言した通りです。》

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