• 2025年9月6日礼拝メッセージの概要

    ※本日の聖書箇所「ルカの福音書10章25節~37節」(新約p.136上段最初)
    10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
    10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
    10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
    10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
    10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
    10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
    10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
    10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
    10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人の所に来ると、見てかわいそうに思った。
    10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
    10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
    10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
    10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行な
    いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

    ◎メッセージ【愛の人とは?】
    《この箇所は、「良いサマリア人のたとえ」と言われている箇所です。「ある律法の専門家」とは、律法学者のことで、その者が、主イエスに質問したのです。
    「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
    律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
    「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
    「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
    この時、彼は主イエスが感心するほどの答えを返したのです。しかし彼は再び質問します。
    「では、私の隣人とはだれですか。」
    実は、400年にもおよぶ中間時代に作られたユダヤ教の教え「旧約外典のシラ書」の中には、『信仰深い人に施せ。だが、罪人には援助するな。謙遜な人に良い業をせよ。しかし、不信仰な者には施すな。不信仰な者には食べ物を拒み、何も与えるな。さもないと、彼はそれで力を得て、お前に立ち向かって来るだろう。信仰な者に施すあらゆる善い業は、二倍の悪となってお前に返って来るだろう。』という教えがあります。
    主イエスは、当時のユダヤ社会において、「罪人」と言われている取税人や遊女たちを赦し、また一緒に食事をすることを彼は知っています。
    また、彼の質問から、「自分は守っているから正しい者のだ。」と言う自負が伺えるのです。
    ここから、いかに、律法学者たちが高慢であるかが分かります。
    そこで、主イエスは、「良きサマリヤ人」のたとえを彼に話されます。しかし、このたとえは、彼だけでなく、弟子たちに、そして今の私たちにも、向けて語られているのです。

    「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。」
    エルサレムからエリコまでは、4キロほどです。エリコは気候が温暖で、住みよい町であり、多くの祭司たちはそこに住んでいました。そして、エリコからエルサレムの神殿に通っていたのです。強盗に襲われた人は、ユダヤ人である設定になっています。
    そこに、たまたま祭司が一人、その道を下って来たと言うのです。おそらく、強盗に襲われた人は血だらけであったことでしょう。祭司は血に触れますと汚れる為、神殿での奉仕が出来なくなります。それゆえ、倒れている人を見ると、見ないように反対側を通り過ぎて行ったのです。次のレビ人も同じようにします。
    そこへ、サマリヤ人がやって来ます。当時、サマリア人とユダヤ人は犬猿の仲でした。正当なユダヤ人に取っては、彼らは異邦人であって、犬と同じ存在であったと言われています。
    そのサマリア人が、強盗にあった人を助けるのです。
    「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
    「その人にあわれみ深い行ないをした人です。」
    「あなたも行って、同じようにしなさい。」

    今日のメッセージの核心部分をお話します。この「良きサマリヤ人」のたとえなのですが、もちろん私たちも、このサマリア人のように、良き行ないをすることを勧められています。
    しかし、もっと核心的なことを言います。このたとえに登場する強盗とは、「悪魔」と「悪霊ども」を指しています。また、強盗にあって、すべてを奪われ、殴られ、半殺しにされた者とは、私たちなのです。
    そして、「良きサマリア人」こそ、私たちの救い主、主イエス様なのです。しかも、そのような瀕死の私たちを見つけ出し、手当をして下さったのも、主なのです。私たち一人一人は、見つけ出され、助け出された者なのです。その感謝として、良い行ないをするのです。》

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