• 日々のみ言葉 2025年9月16日(火)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2025年9月16日(火)

    ◎聖書箇所【ピリピ人への手紙1章20節~21節】
    1:20 それは、私がどういう場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
    1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

    ◎ショートメッセージ
    《現代訳を掲載いたします。
    『1:20 私が切実に期待し、また望むことは、どのような場合にも恥じないで、いつもと同じように、今も大胆であって、生きるにしても死ぬにしても、私自身、身をもってキリストのすばらしさを実証したいことである。
    1:21 私の場合、今生きているのは、私ではなくキリストであり、死さえも決して無益ではない。』

    新改訳の訳は、非常に難解な訳になっています。このあたりが、ただ単に原語に忠実な訳の限界だとは言えるかと思われます。
    私自身、新改訳第二版の旧版から聖書を読み始めたのですが、なかなか理解しにくい所があって、むしろ口語訳聖書の方が分かりやすいと感じていたくらいです。
    それゆえに、未だに口語訳を用いている教会も多く存在するのです。その中でも、大和カルバリーチャペルや、米沢興穣教会などが代表として、挙げられるかと思います。

    パウロは自分自身を通して、イエス・キリストの素晴らしさを実証すること、すなわち証しをすることを願っています。
    また、ここで、「生きるにしても、死ぬにしても」とは、預言でもあって、一回目の投獄からは解放されることを表わし、二回目の投獄の時には、殉教することを表わしているとも思うのです。
    また、パウロは、自分自身の中にイエス・キリストが生きておられることを証ししています。
    そして、パウロ自身の死さえも、伝道の働きに対しては無益になるはずがないことを確信しているのです。
    実際に、パウロの書いた書簡のほとんどが、私たちの手元に残されたのは、神様の摂理の何物でもないのです。》

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