◇◆◇日々のみ言葉
2025年9月26日(金)
◎聖書箇所【ピリピ人への手紙2章5節~7節】
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
◎ショートメッセージ
《昨日と同じ箇所からとなります。現代訳を再度となりますが、掲載いたします。
『2:5 キリスト・イエスをこの点で模範としなさい。
2:6 キリストは神ご自身であられる方なのに、神の栄光や特権に執着されないで、
2:7それらを放棄して、卑しい人間となり、仕える者となられた。』
パウロが言う「そのような心構え」、あるいは「この点で模範」とは、どのようなことかと言いますと、前々回に、学びました、3節~4節のことです。
『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。(ピリピ2:3~2:4)』と、書き記されていることを指しています。
つまり、「主イエスのようにへりくだりなさい」と言うことなのです。
さて、『キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた』とは、どのようなことなのでしょうか。
主イエスは、確かに「みどり児」としてお生まれになられました。しかし、その小さな肉体に宿っていたのは、創造主なる神様の第2位格、神の御子であられたのです。
さて、私たちの人格は年を取るにつれて成長しますが、主イエスは違います。もうすでに、神の御子としての人格を持っておられたのです。それだけではありません。依然として、神様としてのあり方、すなわち神様の栄光や特権をも持っておられました。
しかし、その力をある程度、ご自身で制限されたと思うのです。つまり、神様としての力を使おうと思えば、何時でも使えたのです。
一度だけ使われたことがあります。それは、ガリラヤ湖を歩かれた時です。》