◇◆◇日々のみ言葉
2015年11月20日(金)
◎聖書箇所 【マルコの福音書8章15節~16節】
8:15 そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」
8:16 そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。
◎ショートメッセージ
《『弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。(マルコの福音書8:14)』
一体いつ、弟子たちは、パンが一つしかないことに気が付いたのだろうか。主イエスが、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」と言った時か。
いや、そうではない。この時には、すでに弟子たちは、誰もがパンを持って来ることを忘れていて、実際に、今あるパンは一つしかないことが分かっていた。
おそらく、ちょうど時刻は、お昼どきであったと思われる。舟に乗る前に弟子たちは、互いに「お前はパンを持って来たか」と聞き合っていたと思われる。そして何と、誰であるかは、書き記されてはいないが、手持ちのパンが一つしかないことが、明らかになったのだ。
そして彼らは舟に乗り込んだ。
もうすでに、お腹は空ききっていた。弟子たちの誰もが、「何でパンを持って来なかったんだ。」と、他人に責任を押しつけ、主イエスが共におられるにもかかわらず、舟の中には、険悪なムードが立ちこめていた。
その矢先に、主イエスが言われたのだ。
「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」
もちろん主イエスは、人となられた神であられるので、もうすでに弟子たちが何を考え、またどのような精神状態なのか、熟知しておられた。
「パン種」の「パン」という言葉に、ついに弟子たちの怒りが頂点に達した。そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。
「議論」と言えば、とても格好の良い言葉の響きであるが、実際には、責任の擦り合いである。俗に言う「犯人捜し」である。「パンを持って来なかったのは誰だ。」
ここで一番声を荒げたのは誰であろうか。
考えるとしたら、「一つのパン」を持っていた弟子だろうか。一番すぐに頭に浮かんで来るのは、やはりシモン・ペテロではないだろうか。
なぜ彼らは、主イエスが、「パン種」と言われた時に、議論をし始めたのだろうか。
簡単である。かれらの心が、「お腹が空いていること。」と、パンを持って来ることを忘れた弟子への怒りで、心が満たされていたからだ。
もちろん主イエスは、そんな弟子たちの心のすべてをご存知であられた。「パン」しか頭のない彼らに、あえて、「パン種」のたとえ話をされたのである。
主イエスが言われたことは、霊的なことであった。しかし弟子たちは、霊的なことがらについては、まだ良く理解することが、出来なかった。
霊的なことがらは、生まれ変わっていない者には、悟ることは出来ない。それは聖霊様によらなければ、理解できないものである。
それゆえ、今の日本においても聖書の内容について、あるいは教会における牧師先生のメッセージを聞いたとしても、チンプンカンプンなのだ。私も、主イエスにお会いする前までは、例外ではなかった。
しかし弟子たちは、単なる弟子ではなく、使徒なのである。その使徒たる者が、主イエスの言われたことを、お門違いに理解していたとしたら、大きな問題である。
私たちは、毎日のように主イエス様と、そして聖霊様と共に、聖書を紐解いて学ぶ必要がある。み言葉を食する必要がある。み言葉を、主イエスが言われた言葉を、しっかりと噛みしめる必要がある。それでこそ、パリサイ人のパン種、あるいはヘロデのパン種ではなく、「私はいのちのパンです。」と言われた、主イエスのパンをいただき、そして力をいただき、前に進み出て行くことが出来るのである。》