◇◆◇日々のみ言葉
2015年11月24日(火)
◎聖書箇所 【マルコの福音書8章22節】
8:22 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにイエスに願った。
◎ショートメッセージ
『「ベツサイダ」とは、「漁師の家」という意味のアラム語を音訳した地名である。主イエスの最初の弟子となった漁師ペテロとその弟アンデレ、そしてピリポの故郷であるガリラヤの町。五千人の給食が行われた場所にも近かったとされている。ヘロデ大王の子ピリポが再興し、皇帝アウグストゥスの娘ユリアにちなんでベツサイダ・ユリアスと呼んだ町である。
現在、ヨルダン川がガリラヤ湖に流れ込む河口の東岸を北に1.5キロほど入った地点に現在エッ・テルと呼ばれる古跡があり、一般にこれがベツサイダと同定されている。 今日では高さが30メートルほどの小丘に、古代の建築に用いられたと思われる石の破片が、散らばっているのが見られるだけである。
漁師シモン・ペテロとその弟アンデレ、そしてピリポの故郷であるとしたら、ここには彼らの親戚や親族が、未だまだ健在であったと思われる。おそらくこの町の出身である彼らは、意気揚々として誇らしげに主イエスをお連れした。主イエスの評判をすでに耳にしていた人々は、盲人を連れて来て、さわってやってくださるように願ったのである。
さて盲人には、二通りのタイプが存在する。
一つは、生まれつき盲人であった人である。もう一つは、以前は目が見えていたが、病のため、あるいは外傷のため、視力を失なった人である。
主イエスは、エルサレムにおいて、生まれつき目の見えない若者をいやされたことを、使徒ヨハネは、その福音書に書き記している。
『またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。(ヨハネの福音書9:1~9:7)』
主イエスは、ご自身のことを、「わたしは世の光です。」と言われた。盲人の目を開けられた主イエスは、その盲人に取っては、まさに「光」そのものであったに違いない。
創造の始めにおいて、父なる神は、「光よ。あれ。」と仰せられた。
すべての始まりは「光」である。
しかし、多くの人々は、「闇」の中を歩いている。暗闇の中を手探りで、どこに行くのかも知らないで、さまよっているのだ。
主イエスこそ、世の光であられる。まことの光であられる。しかし、多くの人々の目は、悪魔どもによって、曇らされてしまっているのである。彼らの目には、主の光が届かないのである。
今、その「光」の役目は、バトンは、主イエスを信じる私たちに渡されている。
主イエスは言われた。「あなたがたは、世の光であり、地の塩です。」と。
今こそ私たちは、聖霊様によって灯されている「光」を、さらに輝かす時である。それが、私たちの役目である。
ベツサイダの人々は、主イエスの御もとに、盲人の人を連れて来た。その同じ役目を私たちはすべきである。ひとりでも多くの人を、主イエスの御もとに連れて行こう。私たちは、連れて行くことが仕事である。あとは主イエスが成してくださるのだ。その盲人をいやされるかは、主イエスのお心にかかっている。その主権は、主の側にある。
しかし、主イエスはこう言われた。「神のわざがこの人に現われるためです。」》