◇◆◇日々のみ言葉
2015年11月25日(水)
◎聖書箇所 【マルコの福音書8章23節~24節】
8:23 イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。
8:24 すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と言った。
◎ショートメッセージ
『彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにイエスに願った。(マルコの福音書8:22)』
まず、ここで主イエスは、盲人の手を取られた。これはどういうことか。それは、主イエスこそ、『道しるべ』であることを示している。
そして、盲人は、主イエスの手の温もりを感じたはずである。その手は温かく、そして愛に満ちておられたのだ。
主イエスは、たとえ全く明かりのない真っ暗な道であっても、私たちを導いてくださる。私たちの手を取っていてくださる。そして決して、私たちの手を離されない。
もし主イエスの手を離すとしたら、それは私たちの方からである。そのような時は、私たちは主イエスの手を離すのではなく、主の手をはねのけるのだ。
友よ。決して主の手を離してはならない。はねのけてはならない。主イエスだけが、「人生の道しるべ」なのだから。
そして、主は村の外に彼を連れて行かれた。これはどういうことか。この時、主イエスは彼と二人っきりになられたのだ。もちろん十二使徒たちは、いつも主イエスの御側にいたであろうし、人々からお守りしていたことは間違いない。
主イエスは、大切な教えの時、あるいは「しるし」や「奇蹟」の時に、十二使徒の中でも、特にシモン・ペテロ、ゼベタイの子ヤコブとヨハネだけを、共することを許された場合があった。この時も、そうであったかも知れない。なぜなら使徒ヨハネだけが、この記事を書き記しているからである。
さて、主イエスは、盲人と二人っきりになられた。私たちも、このように主イエスと二人っきりになる必要はある。主イエスとの人格と人格の交わりは、日々必要であるとも言える。
主イエスは、彼の両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。
「つばき」とは、汚いものだと思うかも知れない。主イエスが、耳が聞こえず、口のきけない人をいやされた時、同じよう、主イエスは、つばき指につけ、そしてその舌につけたのであった。
これは、主イエスこそが「いやし主」であることを、教えるために、その体験を忘れさせない為になされたことだとも言える。
すると盲人は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と言った。
昨日の「日々のみ言葉」において、盲人には二つのタイプがあるとも書かせていただいた。
それは、生まれつき目の見えない場合であり、もう一つは、以前は目が見えていたが、病気によって、あるいは外傷によって視力を失った場合である。
今回、主イエスがいやそうとしておられる目を開けようとしておられる盲人の場合には、後者であることは明白である。
それは彼の答えにある。
「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」
彼は、以前人を見たことがあり、人と木の区別がつくことを意味している。また人が歩くことは、どういうことかを知っているのである。
主イエスは、この盲人のいやしに、二段階のいやしをなされた。一回目につばきをつけて彼の目に触れられた時、彼の目は、まだぼんやりしか見えなかったのである。
主イエスは、一瞬にして多くの人々の病やわざわいをいやされた。しかし、今回のように段階を踏んでいやされる場合も存在するのである。
これは、現在において、私たちのいやしを行なわれる時に、現代医学をも用いたり、またいやしの賜物を用いたりされ、一瞬に、あるいは段階を踏んで徐々にいやされる場合もあると言うことだ。
現代医学を用いられようと、奇跡的にいやされようと、主イエスが「いやし主」であることは疑いのないことである。
なぜなら主イエスこそ、「いのちの君」であられるからだ。
現代医学には限界があることを私たちは知っている。なぜなら医者が、「もう手の施しようがありません。」と言う場合が、決して少なくないからである。
しかし、主イエスに不可能なことは何一つない。主イエスには、すべてが可能であり、まだ間に合うのである。なぜなら、このお方こそ、神であられ創造主であるからだ。》