◇◆◇日々のみ言葉
2015年11月26日(木)
◎聖書箇所 【マルコの福音書8章25節~26節】
8:25 それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。
8:26 そこでイエスは、彼を家に帰し、「村にはいって行かないように。」と言われた。
◎ショートメッセージ
『イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と言った。(マルコの福音書8:23~8:24)』
今回の盲人のいやしにおいて、主イエスは二段階を踏むという方法を用いられた。これは、何を意味するのだろうか。
一つは、この盲人の信仰にある。最初に、主イエスに手を取られ、村の外に連れ出された時には、まだ彼の信仰は、それほどのものではなかった。もしかしたら、ベツサイダの人々は、無理矢理に彼を、主イエスの御もとに連れて来たのではないか。
主イエスが、エリコの町から出て行く時に、ここに盲人のこじきがいたことを、マタイ・マルコ・ルカは福音書に書き記している。
マルコによれば、
『彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。(マルコの福音書10:46~10:52)』
マタイとマルコは、主イエスがエリコの町から出て行く時に、盲人バルテマイに出会うことになっている。
しかしルカは、主イエスの一行が、エリコの町に近づいた時、すなわち入る時に出会うとしている。しかしどちらにせよ、このいやしの記事が、3つの福音書に記されていることは、私たちに大切な真理を教えているのであり、ここから学ぶことは重要である。
主イエスはバルテマイに、「わたしに何をしてほしいのか。」と聞いている点にある。
それに対してバルテマイは、はっきりと「先生。目が見えるようになることです。」と言ったのだ。
私たちは、具体的に自分の意思を願いを、主イエスに申し上げる必要がある。
今回ベツサイダの盲人のいやしの場合においては、彼は主イエスに何もお願いしてはいないことは明白である。
それゆえ、主イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられたのである。
すると、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。
この時、主イエスと彼とは向き合っていた。なぜなら主イエスは彼の両眼に両手を当てられたのであるから、これは向き合っていなければ、出来ないことである。
さて、この盲人は、だんだん焦点があって来た。そして、ぼんやりしていたその目が、最初に見たのは何であったろうか。いや誰であったのか。
主イエスである。彼は、主イエスの御顔を見たのだ。
おそらく彼は、以前は目が見えていた。病気か何かの理由で視力を失ったと思われる。もしそうだとしたら、彼は人生に絶望していたに違いない。彼は自分の運命を呪っていたに違いない。
その彼の目が開かれた。そしてその目が、再び見えるようになった時、その目に最初に写ったものは。それは主イエスの御顔であったのだ。
主イエスは言われた。「村にはいって行かないように。」
そして彼を家に帰された。と言うことは、彼には家族がいると言うことだ。そしてこの喜びを真っ先に誰に伝えるべきか。誰に教えるべきか。それは彼の家族であることは、言うまでもない。主イエスの何と言う計らい。また何という優しさ。そして暖かさ。》