◇◆◇日々のみ言葉
2015年12月12日(土)
◎聖書箇所 【マルコの福音書9章5節~6節】
9:5 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
9:6 実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。
◎ショートメッセージ
『主イエスは、ピリポ・カイザリヤに十二使徒を連れて来られた。そしてペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、他の弟子たちはヘルモン山の麓の村に残して、山に登って行かれた。
ルカは、主イエスは祈りに行かれた、と書き記している。祈っておられると、突然、彼らの目の前で御姿が変わった。
その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。
また、エリヤが、モーセとともに現われた。この時の弟子たちの驚きはいかほどであっただろうか。
まさか、旧約聖書のヒーローとも言うべき、エジプトからイスラエルの解放者であったモーセ。
預言者の中の預言者であり、エリシャの見ている前で、火の戦車に乗って、生きたまま天に引き上げられたエリヤ。
しかも、その二人は、主イエスを、確かに知っていたのである。変貌山(ヘルモン山)で初めて、エリヤとモーセは主イエスと会ったのではない。
主イエスは、不思議なことを言われたことを、ヨハネは福音書に書いている。
主イエスは、パリサイ人や律法学者たちにいわれた。
『「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
彼らはイエスと語り合っていた。(ヨハネの福音書8:56~8:58)』
これは、主イエスがアブラハムを知っておられること。そしてアブラハムも主イエスを知っていることを意味しているのである。
主イエスは、エリヤとモーセと、エルサレムにおいて十字架に架かられることについて話していた。
すると、ペテロが口出ししてイエスに言ったのである。
と言うことは、三人の弟子たちは、相当近い距離にいたことが分かる。
「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
まさにちんぷんかんぷんな申し出である。
これは、主イエスとエリヤとモーセを礼拝する場所となる幕屋を、三つ造ると言うことである。
このペテロの言葉から分かるように、ペテロは「幕屋」を知っている。
また「幕屋」が何を意味するのか、またどのようなものであるのかも知っている。
一介の漁師が、このようなことを知識として知っていたことは、ユダヤにおいて、いかに歴史教育が、徹底的になされていたことかが、分かると言うものである。
『実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。』
彼らが覚えた「恐怖」は恐れである。「畏れ」ではない。
主イエスが、よみがえられた後、弟子たちに真っ先に言われた言葉は、「怖れるな」であった。
私たちは、自分が経験したことのないこと。あるいは、自分の知識や理解を遙かに超えたことに出会った時、怖れるのである。
ペテロとヤコブとヨハネにおいては、この体験は確かに恐怖を覚えるものであったが、やがて後に、この体験が、まさしく「主の証人」として、証人の印を押されたとも言うべき、確信たる証拠に変えられるのである。
キリスト教は宗教ではない。
生きておられる神に出会うこと。神を知ることである。まさに「百聞はは一見にしかず」。しかし、まず聞くことが最初である。
聖書には、それが書かれている。聖書に書かれている神こそが、真の神であられる。このお方の名前は、イエス・キリスト。
間もなく12月25日がやって来る。そう、そのお方のお生まれになられた日である。》