◇◆◇日々のみ言葉
2016年5月18日(水)
◎聖書箇所 【マルコの福音書14章22節】
14:22 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これは私のからだです。」
◎ショートメッセージ
《今日は、あえて昨日と同じ聖書箇所からの学びとなります。
昨日は、イスカリオテのユダが「聖餐式」に、あずかったかどうか、について考えて見ました。
尾山令仁先生の結論は、「あずからなかった」と言うことでした。ユダが出て行った後に、イエス様は、新しい礼典を弟子たちにおおやけにされたのです。
「みなが食事をしているとき」には、イスカリオテのユダはすでにいませんでした。しかしそこには、やがて使徒に加えられることになるマッテヤと、バルサバと呼ばれたヨセフも、一緒にいたとも考えられるのです。
ペテロは、「いつも私たちと行動を共にした者の中から」この二人を選び、使徒職のくじを引かせました。とするならば、この二人以外にも、イエス様と使徒たちと共に行動をした者たちが存在していたことは明らかです。
聖書はその辺りのことを詳細には教えてくれませんが、主イエス様と十二使徒だけが常に一緒に行動していたのではなく、他に七十人の弟子たちや、マグダラのマリヤを始めとする女たちも、行動を共にしていたことが、書き記されています。
さて、イエス様はパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えられました。そして言われたのです。
「取りなさい。これは私のからだです。」
この言葉は、非常に抽象的であり、また深い意味を持っています。しかし、この時の弟子たちには、一体なんのことだか、全く理解不能であったのです。
無理もありません。彼らは、これから何が起こるのか、知らないからです。イエス様は、三度に渡って、弟子たちに受難予告をされました。それにもかかわらず、彼らはその言葉を信じることも、またそのことについて質問することさえ、恐れていたのです。
当時の食膳には、「ぶどう酒」はついて回ります。ぶどう酒よりも、水の方が貴重であることは、昔も今も変わりません。そのような環境の中に、エルサレムは建設された都市なのです。弟子たちは、特別な「過越の食事」と共に、たくさんのぶどう酒を飲み、上機嫌であったことは間違いないでしょう。
「取りなさい。これは私のからだです。」
イエス様の言われたこの言葉の意味を、一体、何人の使徒たちが理解したでしょうか。
この「過越の食事」をする数日前に、イエス様が言われた「いのちのパン」の教えについて、一体何人の者たちが思い起こしたでしょうか。
マタイもマルコも、そしてルカも「いのちのパン」の教えについては触れていません。それゆえ、晩年のヨハネが、「第四福音書」を書くことになったのです。
ヨハネによりますと、
『私はいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
私は、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。また私が与えようとするパンは、世のいのちのための、私の肉です。」(ヨハネの福音書6:48~6:51)』と書かれています。
「いのちのパン」を食べると言うことは、イエス様の身代わりの十字架の死を受け入れる、と言うことなのです。》