• 日々のみ言葉 2016年5月27日(金)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2016年5月27日(金)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書14章33節】
    14:33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。

    ◎ショートメッセージ
    《昨日に続きの学びとなります。ゲツセマネの園という所に来て、イエス様は弟子たちに言われました。「私が祈る間、ここにすわっていなさい。」と。
     すると、主が言われた通り彼らは座りました。しかしイエス様は、ペテロとゼベタイの子ヤコブとヨハネを一緒に連れて行かれたのです。
     何か特別な場合にはいつもこの三人を、そして今度は、「最後の祈り」の場にも。

     マタイはこう書き記しています。

    『それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとを一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。(マタイの福音書26:37)』と。

     イエス様は、特に目をかけていた三人の弟子たちの前で、深く恐れ、もだえ始めたのです。悲しみもだえ始めたのです。

     ペテロとヤコブとヨハネの三人は、イエス様のこのような姿を、初めて見たのではないでしょうか。

     「私を見た者は父をも見たのです。」
     今までイエス様は、ご自身のことを「人の子」であると宣告されて来ました。これは単なる「人間の子」と言う意味ではありません。旧約聖書のダニエル書に預言されている「キリスト」のことを指すのです。「神の子」を指すのです。ユダヤ人ならば、誰もが知っていることなのです。

     そのお方が、何と深く恐れもだえ始めたのです。悲しみもだえ始めたのです。

     何時間か後に、イエス様は十字架に架けられます。もしこの時が、現代時制でいう午後11時頃だとしたら、あと10時間後の午前9時には、イエス様はゴルゴタの丘で、二人の犯罪人と共に、十字架につけられるのです。
     そしてそれから6時間後の午後3時に、「わが神。わか神。どうして私をお見捨てになったのですか。」と言われ、霊を父なる神に渡されるのです。

     イエス様は、「十字架の死」を恐れたのでしょうか。私たちは人間ですから、やはり「死」を恐れる者です。イエス様は、まことの神様であると同時に、まことの人間でもありました。人間ならば、やはり「死」を恐れるのが当然です。

     しかしイエス様が恐れたのは、そうではありません。それはすべての人の罪の裁きを、一身に受けるからなのです。それほど父なる神の裁きは恐ろしいのです。その裁きを、罪を一度も犯されたことのないお方が、律法をすべて守り、成就されたお方が、私の、そしてあなたの身代わりとして、私やあなたが受けるべきすべての裁きを、一身に受けるのです。このお方こそが、まことの「救い主」です。このお方以外に、人が救われる道はないのです。》

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