• 日々のみ言葉 2016年5月29日(日)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2016年5月29日(日)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書14章35節~36節】
    14:35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
    14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

    ◎ショートメッセージ
    《私は疑問に思うのです。
     なぜイエス様はゲツセマネの園において、この祈りをされたのか。また、なぜ父なる神様は、イエス様に、この祈りをさせたのか。

     イエス様は、以前このように言われました。

    『「私が自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父は私を愛してくださいます。だれも、私からいのちを取った者はいません。私が自分からいのちを捨てるのです。私には、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。私はこの命令を私の父から受けたのです。」(ヨハネの福音書10:17~10:18)』

     と言うことは、主イエス様は、殺されるのではなく、自分からいのちを捨てるということを意味しています。そればかりではありません。ご自分でご自分の命を捨てられた後、その命をもう一度得る権威が与えられている、と言われています。

     「私が自分からいのちを捨てるのです。」と言われたことは、いわゆる「自殺」を意味するのではありません。イエス様は、十字架を回避することも出来ました。また十字架上においてでさえ、降りることも出来ました。それだからこそ、悪魔は、祭司長や律法学者と民の長老たちの口を用いて、このように言い放ったのです。
    「おまえは他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王様なら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら我々は信じるから。」これは悪魔の策略です。

     さて、イエス様は、側近の弟子ペテロとヤコブとヨハネの前で、弱さをさらけ出されました。一般的にユダヤ人は立って祈るのが普通でした。それを地面にひれ伏して祈られたのです。
    「もしできることなら、この時が自分から過ぎ去りますように。アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯を私から取りのけて下さい。しかし、私の願うことではなく、あなたのみ心のままを、なさって下さい。」

     イエス様は、まことの神様であると同時に、まことの人間でもありました。それゆえ私たちと同じように、悪魔の誘惑、試みを受けられたのです。「ゲッセネマの園」においても、それは変わりありません。

     まことの人間であったイエス様は、私たちと同じように、十字架の刑罰を恐れたのです。十字架上において成される全ての人々の罪のための裁きを、一身に受けること恐れたのです。悲しまれたのです。

     私たちは、ローマ人が考え出した最も残酷な見せしめの刑罰、「十字架刑」が、どのくらいの痛みと苦しみを与えるのか、知りません。
     しかし、主イエス様が、私やあなたの身代わりとして「十字架」に架かって下さったこと、その苦しみと痛みを受けられたことを、決して忘れてはならないのです。
     イエス様の「十字架」があったからこそ、私たちは罪を赦されたのです。》

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