• 日々のみ言葉 2016年6月1日(水)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2016年6月1日(水)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書14章32節~40節】
    14:32 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」
    14:33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。
    14:34 そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」
    14:35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
    14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
    14:37 それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。
    14:38 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
    14:39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
    14:40 そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。

    ◎ショートメッセージ
    《「ゲツセマネの園」でにおける主イエス様の、「血の汗の祈り」について学んで来ましたが、今日は、その総括としての学びとなります。それは「ゲッセネマ」において、主イエス様が何を得られたのか、あるいは何を捨てられたのか、について考えて見たいと思うのです。
     
     ルカによりますと、

    『イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。(ルカの福音書22:44)』と、書かれています。しかもこのような「祈り」を、
    イエス様は、三度されたことを聖書は教えています。

     父なる神様、子なる神であるイエス様、そして「助け主」である聖霊様は、人格を持っておられる神様であり、それでいてひとりのお方なのです。この三位一体の真理は、私たちの理解と想像をはるかに超えている奥義であり、ただそれを受け入れ、信じることしか、人間には、選択の余地が与えられてはいないのです。

     イエス様は、父なる神のご命令と御心が、「永遠のいのち」であることを知っておられました。しかしそれは、イエス様の「十字架」の死によってなされるものなのです。もしイエス様の「十字架」がなければ、人間には何の救いもありません。

     約三年半における公生涯において、イエス様は、父なる神の御心のままに語り、あるいは御わざを行なわれて来ました。それは父なる神にすべてにおいて、従って来られたことを意味します。
     しかし、「ゲッセネマの祈り」において、イエス様の人格と父なる神様の人格が、初めてぶつかり合うことになったのです。

     イエス様は「十字架」を回避することを、三度願われたのです。それは「ひとりの人間」として。
     しかし、ついにイエス様は、「ひとりの人間」として、十字架の死につくことを決心されるのです。子なる神ではなく「ひとりの人間」として。
     イエス様は、この時、父なる神に、ご自身のすべてをゆだねられ、また渡されたのです。つまりご自身の意思を捨てられたのであり、その結果、やがて「十字架」を通して、神の栄光を取り戻すことになるのです。「子なる神」として。

    『キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となられたのです。(ヘブル人への手紙5:7~5:9)』》

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