◇◆◇日々のみ言葉
2016年6月5日(日)
◎聖書箇所 【マルコの福音書14章45節~46節】
14:45 それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生。」と言って、口づけした。
14:46 すると人々は、イエスに手をかけて捕えた。
◎ショートメッセージ
《昨日に引き続き、イスカリオテのユダの裏切りの場面の学びとなります。
この場面はすべての福音書に書かれています。マルコは、簡潔に書いていますが、マタイは、もう少し詳しく書いています。
マタイによりますと、
『イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆も一緒であった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。
イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。
それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。
イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。(マタイの福音書26:47~26:50)』と書かれています。
イスカリオテのユダは、数時間前までは、イエス様と「過越の食事」を共にしていました。またイエス様によって、足を洗ってもらったのです。
それにもかかわらず、ユダは白々しく、「先生。お元気ですか。」とあいさつしたわけです。
その言葉に対してイエス様は、「友よ。何のために来たのですか。」と言われるのです。
「友よ。」
この言葉には、二つの意味があります。
一つは、旧約聖書に書かれてる預言の成就です。ダビデは詩篇において、このように預言しています。それはメシヤが、親しい友に裏切られることを教えています。
『まことに、私をそしる者が敵ではありません。それなら私は忍べたでしょう。私に向かって高ぶる者が私を憎む者ではありません。それなら私は、彼から身を隠したでしょう。そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。私たちは、一緒に仲良く語り合い、神の家に群れと一緒に歩いて行ったのに。(詩篇55:12~55:14)』
もう一つの意味は、イエス様が、ユダに最後の悔い改めの機会を与えられたと言うことです。
イエス様は、誰がご自分を裏切るのか知っておられました。何度も、イスカリオテのユダに、悔い改めの機会を与えられたのです。この時、イエス様に取ってユダは、まだ「友」だったのです。
「ユダ。おまえは私を裏切った。しかし私はまだ、おまえの友なのだ。ユダ。悔い改めなさい。罪を告白し、赦しを請いなさい。そうすれば私はおまえを赦すから。」
この思いこそが、イエス様の「友よ。何のために来たのですか。」という言葉にこめられているのです。
しかし、イエス様の愛は、思いは、ユダには伝わりませんでした。イエス様は、最後の最後まで、イスカリオテのユダに手を差し伸ばされました。しかしユダは、その差し伸ばされた手を、決して掴もうとはしなかったのです。
今でもイエス様は「救いの手」を差し伸べておられます。そしてその手を多くの人々は掴もうとはしません。しかし、私たちはその手を掴みました。イエス様は、決して私たちの手を離されません。もし離すとしたら、私たちの方からなのです。》