◇◆◇日々のみ言葉
2017年1月9日(月)
◎聖書箇所 【ルカの福音書6章12節】
6:12 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。
◎ショートメッセージ
《イエス様は祈られる人でした。そのことについては、ルカは福音書に何度も書き記しています。
『イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。(ルカの福音書5:16)』
主イエス様にとって「祈り」とは何であったのでしょうか。
私たちは、天地創造された神様が、ただ一人のお方であることを知っています。しかしそのお方は、三つの人格を持っておられるのです。
父なる神様、聖霊なる神様、そして御子イエス様です。このことを『三位一体』と呼びますが、実際に人間が、このことについて理解することは非常に難しく、尾山令仁先生は、「考えても無理です。信じるしかないのです。受け入れるしかありません。」と教えられました。要するに人間の理解の限度を超えていると言うことなのです。
さて、三つの人格をお持ちでありながら、一つであり、一人のお方であったとしたら、互いに話すことをしなくても、神様どうしですから、その思いも考えていることも、一瞬にしてわかり合えるはずだと、私などは浅はかな知恵で考えるのですが、どうやらそうではないようなのです。
「神は愛です。」と、ヨハネはその手紙に書き記していますが、愛とは人格と人格の間に存在するものですので、父なる神様と御子イエス様、そして聖霊様との間には、もしかしたら一種の壁のようなものがあって、お互いに干渉することが出来ないのかも知れないのです。
それだからこそ、イエス様は父なる神様の御心を求めるために、祈られたと私は思うのです。
「祈り」は「会話」です。
「祈り」は「交わり」です。
私たちは、一方的な祈りばかり捧げる傾向があります。「祈り」が「会話」であり「交わり」としたら、相手は必ず答えてくださることになります。
こちらが話せば、相手も話されるのです。
イエス様は、祈りにおいて、父なる神様と話されておられたのです。交わりをしておられたのです。あるいは協議されていたのかも知れません。
この時の「祈り」は、夜明けまで続きました。それは父なる神様だけでなく、聖霊様も交えて、イエス様に従って行動を共にしている弟子たちの中から、「十二使徒」を選ぶための「話し合い」であったからです。
例えば、新入社員を採用する時に、人事課の人々が誰を採用するのか協議するように、おそらく七十人以上いたであろう弟子たちの中から、十二人を絞るために、父なる神様と聖霊様と御子イエス様は、徹夜で話し合われたのです。
私は思うのです。
もしかしたらイスカリオテのユダを選ぶことについて、イエス様は最後まで抵抗されたのではないでしょうか。
しかし父なる神様の御心は、十二番目にイスカリオテのユダであったと。》