• 日々のみ言葉 2017年1月8日(日)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2017年1月8日(日)

    ◎聖書箇所 【ルカの福音書6章10節~11節】
    6:10 そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。
    6:11すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。

    ◎ショートメッセージ
    《引き続き、カペナウムの会堂における「右の手がなえた人のいやし」の場面からの学びとなります。

    『別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。
     イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。
     イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」(ルカの福音書6:6~6:9)』

     人々の真ん中に立たせられた右手のなえた人は、この時にどのような気持ちだったのでしょうか。
     まずこの人は、イエス様に期待していたでしょうか。私にはそうは思えないのです。なぜなら、もし期待していたのなら、カペナウムにイエス様が戻って来られた時に、我先にとイエス様の御元にやって来て、いやしを求めたはずです。
     おそらく、別な町からパリサイ人や律法学者たちが無理矢理に連れて来たのではないでしょうか。
     まさしく彼は見世物です。いけにえです。日本のことわざで言いますならば、「まな板の鯉」です。

     イエス様は、そんな彼に、権威を持って命じました。

    「手を伸ばしなさい。」

     彼は思ったはずです。
    「右手がなえていて、伸ばせることが出来ない。伸ばせないから不自由なのだ。右手を伸ばせるわけがない。」

     しかし奇蹟は、イエス様のお言葉に従う時に起きるのです。預言的行動が必要なのです。信仰による行動が求められているのです。

     彼は、思い切って伸ばそうとしたのです。すると、彼の右の手は、左の手と同じように、一緒にして元通りになったのです。この時の彼の驚きよう、また喜びようについては、ルカは書き記してはいません。

     それを目の前にて目撃したパリサイ人や律法学者たちは、すっかり分別を失ってしまったと言うのです。

     ここで彼らが神様の御わざを誉め称えたのなら、良かったのですが、彼らは、イエス様をどうしてやろうかと話し合ったと言うのです。
     奇蹟が行なわれたにも関わらず、彼らは信じようともせず、ただ律法違反と言う点だけに目が向けられていたわけです。

     今現在でも、奇蹟が起きたとしても、あるいは身を持って体験したとしても、イエス様を信じることが出来ない人々が、大勢存在します。
     信仰は信じることから始まるのですが、単純に信じること、そして信じ続けることの難しさを、なぜか感じるのは私だけなのでしょうか。

    「あなたがたの信仰が、あなたがたを救ったのです。」
     この方以外に、人類の救い主はおられないのです。》

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