• 日々のみ言葉 2017年2月6日(月)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2017年2月6日(月)

    ◎聖書箇所 【ルカの福音書6章43節~44節】
    6:43「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。
    6:44木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。」

    ◎ショートメッセージ
    《ここで主イエス様は、人を木とたとえておられます。
     ところで、良い木と悪い木とはどういうことなのでしょうか。

     主イエス様を信じて救われた人は良い木で、まだイエス様を信じておらず、この世の霊に従って歩んでいる人は悪い木なのでしょうか。

     いいえ、それとは少し違うようです。主イエス様を知らずとも、良い行ないをする人は数多く存在します。
     例えば、被災地におけるボランティア活動をする団体や人々。その多くの人々は、普通の一般的な人々であり、むしろクリスチャン団体に所属している人々の方が、数的には少ないかも知れません。なぜなら日本のクリスチャンの人口は、0.1パーセントと言われていますから。

     主イエス様は、この教えを弟子たちになされました。と言うことは、まだ弟子になっていない人々や、パリサイ人や律法学者に向けてではない、と言うことが分かります。

     つまり良い木と悪い木とは、良い弟子と悪い弟子と言うことになるのです。
     そしてその実によって、良い木、すなわち良い弟子であるのか、悪い木、すなわち悪い弟子であるのかが区別出来ると言われるのです。

     問題は木そのものにあるのです。もしある人が、イエス様の教えとみ言葉によって、その人の心が満たされていたとしたら、間違いなくその人は良い実、良い行ないをすることが出来るのです。

     しかしその反対に、その人の中に、未だに古い自分が生き残っており、自分中心の生き方をしていたとしたら、その人は良い実ではなく悪い実を結ぶことになって行くのです。

     特にイエス様が、大きく問題にしたことは「偽善」です。パリサイ人や律法学者たちは、旧約聖書に通じていました。確かに彼らは、彼らの口伝律法「ミシュナ」に従って歩んでいました。しかし、その本当の所は、旧約聖書の教えから離れたものでした。
     彼らには、まことの神様に対する信仰は、ほとんどありませんでした。もし信仰があったら、イエス様をメシヤとして信じ、認めるはずです。信仰が無いのにも関わらず、彼らは宗教家を装っていたと言うことが真実です。それゆえイエス様は、彼らを「偽善者たち」と名指したのです。

     主イエス様の弟子でさえも、そのような危険性があると言うことです。いかにも、信仰深いように見せかけることが出来るというわけです。つまり、それは神様の目よりも、周りの人の目を気にしていると言うことなのです。

     信仰は見せかけではありません。主イエス様のみ言葉に、従って行くことです。大切なことは、主イエス様の御心の、真ん中を歩くことです。良い木であるためには、主イエス様のぶどうの木につなぎ合わせていただく必要があります。いつも、良い実を結ぶ者でありたいものです。》

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