◇◆◇日々のみ言葉
2017年2月20日(月)
◎聖書箇所 【ルカの福音書7章13節】
7:13 主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。
◎ショートメッセージ
《イエス様がナインの町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところでした。
ナインの町の人たちが大ぜいその母親につき添っていたのです。
その葬儀の行列は、ひとり息子の青年の棺を先頭に、そしてその棺の横に号泣する、その母のやもめ、そしてその後に大ぜいの町の人々が続いていたのです。
当時のユダヤの棺は、ふたがなく簡単に四角を板で囲ったものでした。その中に、布でぐるぐるに巻かれた遺体が置かれ、日本風に言うならば、まるで御神輿のように、男の人たちに担がれたのです。よって、通り行く人々には、布でぐるぐるに巻かれた状態の遺体は、丸見えだったのでした。
ところで「布で巻かれたからだ」と言う状態を表わす表現から、二つのことが思い浮かべられます。
一つは、主イエス様によって、生き返ったラザロです。
ヨハネの福音書によりますと、
『そして、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(ヨハネの福音書11:43~11:44)』
そしてもう一つは、復活されたイエス様です。
同じくヨハネの福音書によりますと、
『ヨハネはからだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布と一緒にはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。(ヨハネの福音書20:5~20:7)』
十二使徒たちは、やもめのひとり息子の生き返った場面を、そしてマルタとマリヤ姉妹の弟ラザロが生き返った場面も、しっかりと自分の目で見ることになるのです。
それなのに、主イエス様がよみがえられた時には、復活されたことを信じることが出来なかったのです。ご自身がその姿を自分たちに現わされるまでは。
さて、イエス様の目は、号泣するやもめの母親に留められたのでした。そしてイエス様は、かわいそうに思われたのです。
ヨハネはこう書き記していますが、イエス様が何かを言われたからではなく、おそらくイエス様の深い哀れみに満ち溢れた眼差しと、そのお顔の表情から、それを察したのではないでしょうか。主イエス様は、悲しみを知っておられるのです。
そしてその母親のやもめに近づかれ、こう言われたのです。
「泣かなくてもよい。」
この言葉を聞いた母親は、一瞬我が耳と我が目を疑ったのではないでしょうか。夫に先立たれ、そして最愛の一人息子を、今からユダヤの仕来りに従って、横穴式の墓地に葬ろうとしているのに、泣かないわけにはいかないからです。
その母親から涙を拭うためには、たった一つしか方法はないのです。それはその青年が生き返って、その母親に返すことだけなのです。
「泣かなくてもよい。」
このお言葉は、単なる慰めではなく、神の権威を持って主は語られたのです。その言葉には、深い同情と哀れみと愛と、威厳が満ち溢れていたのです。
カペナウムからついて来た人々は、ナインの門の外で、これから何が起こるのか、固唾を飲んで見守っています。》