• 日々のみ言葉 2017年5月6日(土)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2017年5月6日(土)

    ◎聖書箇所 【ルカの福音書8章52節~53節】
    8:52 人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」
    8:53 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。

    ◎ショートメッセージ
    《イエス様は、ヤイロの家にはいられましたが、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父と母のほかは、誰も一緒にはいることをお許しにはなりませんでした。

     まずイエス様は、彼らにしっかりと確認させるべきことがあったと私は思うのです。

    マタイの福音書によれば、
    『イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。(マタイの福音書9:23~9:24)』となっています。

     ヤイロの妻は、娘がすでに死んでいることを知っていましたが、ヤイロがイエス様の所に願いに行った時には、娘はまだ生きていたのです。

     ペテロとヤコブとヨハネは、イエス様が、
    「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」
    「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」と言われた言葉を聞いて、

    「何だ。眠っているんだ。死んだのではないんだ。」と思ったはずです。

     つまり、イエス様は、彼らに、ヤイロの娘は死んでいることを確認させる必要があったのです。
     眠っている子供を起こしたとしても、どうして奇蹟になり得るのでしょうか。死んでいた娘が、生き返るからこそ奇蹟であり、しるしなのです。

     まず当時のユダヤの風習について考えて見る必要があります。イエス様は「泣かなくとも良い。」と言われ、笛吹く者たちや騒いでいる彼らに、「あちらに行きなさい。」とも言われました。

     これは、葬儀の時に、「泣き女」とも呼ばれ、泣きわめいて、残された者たちを慰めることを職業とした人々がいたのです。「笛吹く者」たちも同じです。
     それだからこそ、イエス様は追い出されたのです。本当に悲しむ者たちを、追い出したりはいたしません。

     もし彼らが本当にヤイロの娘の死を悲しんでいるのなら、イエス様が「その子は死んだのではない。眠っているのです。」と言われた言葉を聞いて、あざ笑うことなどするでしょうか。
     むしろ信仰を持つ者ならば、マルタのように、終わりの日にすべての人がよみがえることを知っていて、そのことに希望を見い出すはずなのです。

     またイエス様をあざ笑う人々は、このお方が「いのち」を握っている、まことの神様であられることが、分からないのです。

     ここに自分の知恵や知識や経験だけで、ものごとを判断してしまう人間の愚かさが描かれています。
     そして今生きている私たちにも、神様の成されることを、素直に受け止める謙虚な心を持つべき必要を、改めて教えてはいないでしょうか。

     信仰とは、主イエス様を、そしてイエス様の言われた言葉を信じることなのです。》

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