◇◆◇2017年11月12日第二主日礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書12章34節~36節】 (新約p.187下段左端)
12:34 そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」
12:35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。
◎メッセージの概要 【光がある間に】
《イエス様は、ご自分がどのような死に方で死ぬかを示されて、言われたのです。すなわち「十字架刑」のことを。これを聞いていた群衆がイエス様に質問しました。
「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」ここで「上げられなければならない、」とは、高く掲げられることを意味しています。すなわち「十字架」です。
ユダヤ人は、メシヤ預言を知っていました。キリストはダビデの家系であり、とこしえに王国を治めるとイザヤを通して言われていたのです。それゆえ、十二使徒たちも、イエス様が死ぬことなど考えられなかったのです。ピリポ・カイザリヤにてシモン・ペテロが「キリスト告白」をした時から、イエス様は受難予告をし始めました。それゆえペテロはイエス様をとがめてしまったのです。
さてイエス様は、「人の子とは誰ですか。」の質問に直接答えようとはなさらず、「光」について話されました。「光」とは、まさしくイエス様のことです。イエス様は、以前弟子たちにこのように教えておられます。
「私は、世の光です。私に従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
「私たちは、私を遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。私が世にいる間、私は世の光です。」
イエス様は、「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。」とも言われました。これはやがて世の光であるイエス様が取り去られることを預言されています。この預言は、まさしくイエス様の十字架刑において成就します。その時全世界は真っ暗闇の中に閉ざされることになります。残された弟子たちも、この時まさに真っ暗闇を体験することになるのです。しかしその期間は約二日間くらいで、イエス様は復活され、またこの世に光が戻って来ることになります。その時のイエス様は、栄光の体に変えられており、この時からまさしく救い主は永遠に生きることになるのです。そしてイエス様は、ここでも言われたように、上に上げられることになります。それがオリーブ山での昇天なのです。
それでは、「世の光」であるイエス様が取り去られてしまった今、この世はまた真っ暗闇の中に落とされたのでしょうか。いいえ。違います。「世の光」としての役割をご自身の弟子たちに託して行かれたのです。「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
私たち主に従う者であるクリスチャンは、まさしく使徒パウロが、「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」と言われている通りなのです。
私たちは「光の子ども」です。光は明るいのです。その反対に闇は暗いのです。光は、人々を照らします。光は、道標となるのです。それだからこそ、私たちクリスチャンは、輝かなければならないのです。主イエス様は、燭台を下には置きません。台の上に置かれるのです。私たちは、台の上に置かれた、明かりなのです。それゆえ光の子どもらしく歩もうではありませんか。》