◇◆◇日々のみ言葉
2017年11月16日(木)
◎聖書箇所 【ルカの福音書14章31節~32節】
14:31「また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。
14:32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。」
◎ショートメッセージ
《最初にイエス様は、「塔」のたとえを話されました。
「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。」
次に話された「たとえ」が、「戦をする王」のたとえなのです。
このたとえの解釈はかなり難しいとも言えます。なぜなら、それぞれの言葉に値する比喩が何を意味しているのか、特定出来ないからです。
「塔のたとえ」では、結局資金が底をついて、基礎工事しか出来なかったことを言っています。その時、塔を築こうとして者は、全財産を失うことを意味しています。
また、二万人の兵士で向かって来る王に対して、一万人の兵士しか所有していない王は、当然勝ち目がないことを悟り、講和を求めることは、当たり前の常識です。
もちろん、その時には、それなりの犠牲と従順が必要とされるでしょう。敵の王に従属する形となることは間違いありません。
つまりイエス様が、このたとえで言われていることは、ご自身の弟子となるためには、それなりの覚悟と犠牲が必要であると言うことなのです。
救いは、一方的な神様の恵みなのです。誰でも自分の罪を告白し、悔い改めて、主イエス様を、救い主として信じ、口で告白するならば、その人は救われます。そして「永遠のいのち」をいただけるのです。
救われたと同時に、確かに永遠のいのちをいただいたのですが、本当にそのいのちを自分の物にするのは、主イエス様が再臨なされた時なのです。
まさに使徒パウロが言うように、
『競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(第Ⅰコリント9:24 ~9:27)』
信仰生活は、決して順風満帆ではありません。しかしそのゴールには、かけがえのない、素晴らしい賞品が用意されています。》