◇◆◇日々のみ言葉
2017年11月24日(金)
◎聖書箇所 【ルカの福音書15章8節~10節】
15:8「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
15:9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください。』と言うでしょう。
15:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」
◎ショートメッセージ
《主イエス様が取税人や罪人たちを迎えて一緒に食事をされた時、それを見ていたパリサイ派の人たちや律法学者たちがつぶやきました。
「この人は、罪人たちを受け入れて、食事まで一緒にする。」
それを一瞬にして悟られたイエス様は、彼らに向かって三つのたとえを話されたのです。
最初に学んだたとえは、「無くした一匹の羊」あるいは「九十九匹の羊」のたとえで、今日は、次にイエス様が語られた「無くした一枚の銀貨」について学びます。
さて、当時のユダヤでは労働者が一日働いて稼ぐ賃金が一デナリでした。それが銀貨一枚に相当するのです。
イエス様が、一人の男ではなく一人の女の人と言っていることに、実は深い意味があるのです。
今現在で言うならば、この銀貨一枚は一万円に相当するかと思われます。私たちでも一万円を無くしてしまったとしたら、やはり心穏やかではありません。なぜなら一万円には、一万円の価値があるからです。
でも、もし無くしたとしても、また働けば良いのです。働けば、必ず報酬は与えられるからです。
当時のユダヤでは、女性が結婚する時に、女性が自分の持参する財産の一つとして、十枚の銀貨を首飾りのようにして身に着けていたと言われています。
もし何かがあって実家に帰らなければならないような時や、旅先で急な必要に迫られた時には、その首飾りの銀貨が、重宝したのです。最も、その必要が無いことに越したことはありません。
どうやら、その首飾りの中の一枚の銀貨が無くなってしまったのです。もしかしたら、その女性の母親もしくは祖母が、花嫁として輿入れする時に渡したものかも知れないのです。
そうだとしたら、単なる一デナリの銀貨ではなく、同じ銀貨であっても、かけがえのない銀貨に相違ありません。
だからこそ、「それを見つける為に、明かりをつけ、家を掃いて念入りに捜さないでしょうか。」と主イエス様は言われるのです。
そしてついに見つけて、友だちや近所の女たちを呼び集めて、
『なくした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください。』と言うわけです。
なぜなら特別にかけがえのない銀貨だからです。
それと同じように、主イエス様にとって、たとえ罪人であろうとも、その人はかけがえのない存在であることを、このたとえで教えておられます。
そして一人の失われていた魂が、悔い改めて救われるならば、天の御国において、御使いたちによる喜び満ち溢れた大宴会が催されることになる、と主イエス様は言われるのです。》