◇◆◇2018年1月20日第Ⅲ土曜礼拝
◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書13章12節~17節】 (新約p.189下段右側)
13:12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「私があなたがたに何をしたか、わかりますか。
13:13 あなたがたは私を先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。私はそのような者だからです。
13:14 それで、主であり師であるこの私が、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
13:15 私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、私はあなたがたに模範を示したのです。
13:16 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。
13:17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」
◎メッセージの概要 【互いに足を洗い合いなさい】
《今日からまたヨハネの福音書の学びに戻ります。今日は、イエス様が弟子たちになされた「洗足式」のことについて、改めて考えて見たいと思います。
イエス様は、最後の晩餐、しかも過越の食事を中断されて、わざわざ弟子たちの足を洗われたのです。もし単に足を洗うのならば、食事の前に、すなわちヨハネ・マルコの家に入られた時にされたはずです。
マルコの福音書の執筆者ヨハネ・マルコは裕福な家庭で育ちました。しかも120人以上の者が入ることの出来た大きな家であったのです。当然、多くの僕たち、奴隷たちを擁していました。主人であるヨハネ・マルコの父が、イエス様の為に食事の席を用意したのですから、イエス様が家に入られた時に、当然、僕たちがイエス様と弟子たちの足を洗っていることになります。なぜならそれが、その家の主人の、客に対する礼儀だからです。
よってイエス様がなされたことは、弟子たちには分からなかったのです。つまり二度も足を洗うことになるのですから。
ここでイエス様が教えられていることは、ただ足を洗い合うことではありません。これは「罪の赦し」に関しての教えなのです。ペテロはイエス様に、「主よ。あなたが、私の足を洗って下さるのですか。」と聞くと、「私がしていることは、今はあなたにはわからないが、後でわかるようになります。」とイエス様は言われました。まさしく、「十字架」による罪の赦しを言われているのです。
事実、このことはコルネリオへのペテロのメッセージにおいて成就したことが分かります。ペテロはコルネリオに、「イエスについては、預言者たちも皆、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」と語っているからです。
しかし、この時には、まだペテロを始め弟子たちは、イエス様のなされたこの洗足の意味が分からなかったのです。
そして次にイエス様は、「あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」と勧めました。これはそのままの意味で取るべきではありません。つまり、『主イエス様の十字架によって罪赦された者は、互いに罪を赦し合いなさい。』、と言うことを教えておられるのです。
山上の垂訓においてイエス様は弟子たちにこのように教えられました。
「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」
これは、主の祈りを教えられた後に語られた言葉なのです。
また別な所では、このように十二使徒に教えています。
「もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
こんなことは普通の人間ならば、常識的に言って出来ることではないのです。私たちが一番難しいことは、「赦す」ことです。「赦せない」のが私たちであり、また人間の本性なのです。赦すことが出来ないことは当然なのです。当たり前なのです。
しかし、主であられるイエス様が、私たちの罪の身代わりとして死んで下さいました。主イエス様を信じる者は、罪赦され永遠の命が与えられるのです。神様は、イエス様の十字架と流された尊い血潮によって、すべての人の罪を赦して下さったのです。だからこそ、この素晴らしい無償のプレゼントである「贖いの御わざ」を知って、信じた者は、罪が赦され、また他人の罪を赦すことが出来るのです。それこそが、互いに足を洗い合うことなのです。 イエス様の新しい命令は何でしたか。それは互いに愛し合うことです。愛し合うこととは、「赦し」の上に成り立つものなのです。律法は罪が何であるのかを立証しました。そしてイエス様は、メシヤとして「罪の赦し」の道を切り開かれたのです。赦すことこそが、祝福の恵みをもたらすのです。》