◇◆◇日々のみ言葉
2018年1月28日(日)
◎聖書箇所 【ルカの福音書18章11節~12節】
18:11「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一を捧げております。』」
◎ショートメッセージ
《「パリサイ人」、律法学者の一つの宗派であるパリサイ派に属している宗教家の人たち。 厳格に、ミシュナに書かれた「口伝律法」を守り、一般のユダヤ人たちから多大な尊敬を受け、また先生と呼ばれた人たち。
彼らは、自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちでもあったのです。その彼らに対して、彼らに聞こえるように、イエス様はこのようなたとえを話されました。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。」
そしてこのパリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをしたのです。イエス様は、まことの人であると同時に、天地創造された神様でもあられましたから、人の考えや思いを一瞬にして見分けることが出来るのです。
私たちは、イエス様の御前では、隠し通せるものは、何一つ無いのです。そのことを思いますと、十二使徒たちは、実は大変だったに違いありません。なぜなら、すべてがイエス様の前には、さらけ出されていたからです。
「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一を捧げております。」
イエス様は、ご自分の周りにいた弟子たち、そしてさらにその周りに同席していたパリサイ人や律法学者たちに、故意に聞こえるように大声で話されたのです。
本当に、このたとえは、たとえなのでしょうか。
いいえ。
もしかしたら、このような祈りを、かつて、いや何回もエルサレムの神殿で祈ったことのあるパリサイ人が、実際にその場に居合わせているのかも知れません。一人、また一人。もしかしたら全員。
そうだとしたら、このたとえ話は、間違いなくその人自身への、イエス様の悔い改めの勧めであり、また救いの言葉であったかも知れないのです。
「自分は正しい。」
「自分は清い。」
「自分は義人だ。」
「自分は善い人だ。」
もしそのように思う人がいたとしたら、このパリサイ人とも何ら変わらないのです。
預言者エレミヤに、神様は言われました。
『人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(エレミヤ書17:9)』
これが人間です。これが人間の本当の姿です。
すべての人が罪人です。義人は誰もいません。
だからこそ、救い主、イエス様が、この世に来て下さったのです。
だからこそ、身代わりとなって、十字架に掛かって死んで下さったのです。
このお方以外に、救いの道はありません。主イエス様を信じる者には、罪の赦しと永遠の命が与えられるのです。》