◇◆◇日々のみ言葉
2018年1月30日(火)
◎聖書箇所 【ルカの福音書18章14節】
18:14「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
◎ショートメッセージ
《主イエス様は、パリサイ人や律法学者たちに向けて、一つのたとえを話されました。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一を捧げております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」
そして説き明かしにおいて、イエス様は、パリサイ人ではなく、取税人の方が、義と認められたと言われたのです。
ここで「義と認められる」と言うことは、取税人が捧げた祈りを神様は受け入れて下さったと言うことを意味しています。
私たちが、神様に義と認められる為には、主イエス様の十字架を通してでなければ、決してあり得ないことなのです。
もし、行ないや私たちの努力で義と認められるとしたのなら、救い主であるイエス様は必要ないのです。
そうであるならば、イエス様は死ぬ必要もなく、また十字架も無意味になつてしまいます。
しかしパウロはこう言っています。
『それは、次のように書いてあるとおりです。
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3:10~3:12)』と。
この言葉は、詩篇14篇1節~3節からの引用です。
確かにパリサイ人が捧げた祈りは、一見素晴らしく見えるものです。
「私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」
ここで彼は、祈りを捧げに来た取税人と自分とを比べています。彼の祈りの矛先は、父なる神様ではなく、取税人であることが分かります。よってパリサイ人の祈りは、祈りではなく、単なる独り言なのです。
神様の御前に、自分自身を低くする者こそが、受け入れられるのです。神様の御前にひざまずき、心から霊と真を持って祈りを捧げるのなら、神様は、その祈りと共に、その人自身を受け入れて下さるのです。》