◇◆◇日々のみ言葉
2018年1月31日(水)
◎聖書箇所 【ルカの福音書18章15節~17節】
18:15 イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。
18:16 しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
18:17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
◎ショートメッセージ
《ここからルカは、また場面を変えています。
ユダヤの人々が、その幼子たちを、主イエス様の御もとに連れて来たと言うのです。ここで、幼子とは、生まれてから数日経った子どもから、一歳くらいまでの子どもたちを指しています。
となれば、多くの場合には母親が抱いて、あるいは手を引いて連れて来たと思われます。「イエス様にさわっていただこう」とは、幼子たちに按手してもらい、祝福してもらいたいと思ったからです。なぜなら、当時のユダヤでは、偉い先生(ラビ)の所に生後一年ぐらいまでの幼子を連れて来て、祝福してもら習慣があったからです。
旧約時代における生後八日目の割礼が、初代教会における幼児洗礼の起源とも考えられています。
イエス様も、八日目に祝福を受けられたのです。
ルカの福音書によりますと、
『八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。
さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。
それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。」と書いてあるとおりであった。
また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。
すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、み言葉どおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」(ルカの福音書2:21~2:35)』と、書かれています。
ましてや、この時、イエス様の名声は絶頂期を迎えていたのです。ユダヤの国だけでなく、その他の異邦人の町々にさえ、イエス様のなされた奇蹟の御わざは広まっていました。
今をときめくラビであるイエス様に、自分の幼子である子どもを祝福してもらいたいと思うのは、母親として、あるいは父親としても当然の願いではないでしょうか。
しかし、それを見た十二使徒たちは、叱ったのです。
明日も同じ箇所から、続きを考えて見たいと思います。》