◇◆◇2018年4月8日第二主日礼拝
◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書20章26節~31節】 (新約p.205上段右側)
20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
20:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
◎メッセージの概要 【復活された一週間後に】
《先週の日曜日はイースター、主の復活を祝い、全世界でお祭りが行なわれたのではないでしょうか。十字架にかかられ死んだイエス様が三日目によみがえられた日。それが日曜日であり、教会は主のよみがえられた日に集まって礼拝を捧げるのです。
さてルカの福音書と使徒の働きから、イエス様が復活されたのは4月7日であることが導かれるようです。するとイエス様が十字架にかけられた「聖金曜日」は4月5日になります。 しかし教会暦では、春分の日を過ぎた最初の満月の日の次の日曜日と、イースターが決められています。それは、記念集会を開く上で、その年の曜日を一致させる為にどうやら制定されたようなのです。
さて、復活の日の当日、クレオパ夫妻(クロパの妻マリヤ)がエマオの自分の家に戻る時に、イエス様が近づかれて来て、同行したことをルカは書き記しています。その二人がイエス様だと気付き、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まっていました。この時すでにシモン・ペテロは、よみがえられたイエス様に会っています。
さてこの場所ですが、クレオパと妻マリヤは、エマオに戻る前にここにいたことが分かります。一体誰の家なのでしょうか。
ゲッセマネの園に来る前に、イエス様は十二使徒たちと共に最後の晩餐の時を過ごします。その場所はヨハネ・マルコの家だと言われています。イスカリオテのユダは、そこを出て行き、祭司長たち、ユダヤの長老たち、パリサイ人と共に、ローマ兵の百人部隊を引き連れてイエス様を捕らえに来ます。イスカリオテのユダが最初に向かったのは、間違いなくヨハネ・マルコの家です。しかしすでにそこには、イエス様も弟子たちもいませんでした。よってユダが向かったのは、ベタニヤのマルタとマリヤの家です。その途中にゲッセマネの園があるのです。
そこで、弟子たちは逃げてしまい、二つのグループに分かれます、一つはベタニヤに逃げ帰る使徒たち九名のグループ、もう一つのグループはヨハネとペテロの二人です。この二人はイエス様の後について行きます。
十字架刑の側にはイエス様の母マリヤとヨハネと女たち(ゼベタイの妻サロメ・マグダラのマリヤ・ヨハンナ・クロパの妻マリヤ)がいました。遠い所にペテロもいたのです。このグループは、アリマタヤのヨセフとニコデモがイエス様の御体を、ヨセフが買った新しい墓へ埋葬するまでついて行きます。そしてその後、安息日となりゼベタイの家に泊まることになります。
さて、イエス様が復活された日、太陽が沈みかけ、間もなく月曜日が始まろうとしていた時のことです。すでに使徒たちは合流していました。しかしエルサレム市内は弟子たちを躍起になって捜していましたから、彼らは戸にカギをかけて潜んでいたのです。
そこにイエス様が現われたのです。ペテロ、そして女性たち、またクレオパ夫妻も生きておられるイエス様にお会いするのは、この時二回目となります。しかし残りの八人の使徒たちは初めてお会いすることになります。
ペテロはコルネリオに、「私たちは主イエス様と食事をした」ことを証していますので、この後イエス様と彼らが食事を共にしたことは間違いないことだと思われます。しかしこの時、デドモと呼ばれたトマスはいませんでした。なぜトマスがいなかったのかは聖書には書かれていません。
さて、イエス様の弟子たちへの命令は何でしたか。それはマグダラのマリヤにも、再度弟子たちに伝えるよう御使いは言いつけます。
「あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」
命令は「ガリラヤへ行け」と言うことです。それにも関わらず、ペテロに、そしてトマスを除く弟子たちに現われてくださったのです。
使徒の中で、ただ一人、生きておられるイエス様を見ることが出来なかったトマスはいじけてしまいます。
「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」
おそらくこれは、月曜日の朝以降にトマスが戻って来た時になされた会話だと思われます。
それからその週の日には、イエス様は弟子たちには現われません。おそらくこの時、母マリヤ、そして弟と妹たち、また他の者たちに現われたと私は信じます。
弟子たちは、「ガリラヤに行け」と命じられていたのですが、トマスは動こうとはしません。そして八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らと一緒にいた時です。カギがかけられていましたが、イエス様が来て彼らの中に立たれたのです。そしてトマスに、
「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われたのです。
ここから私たちは何を学ぶべきでしょうか。それはイエス様が、一人の魂を大切になさると言うことなのです。トマスの願いと祈りに、このように答えて下さると言うことなのです。 決して、十派一絡げではないのです。使徒ヨハネは、後に福音書にこう書き記しています。
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。』と。
その後のトマスは、伝承によればペルシャとインドにまで、一人で福音を宣べ伝え、殉教します。》