• 2018年6月24日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2018年6月24日第四主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書14章22節~26節】 (新約p.192下段右側)
    14:22 イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」
    14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでも私を愛する人は、私の言葉を守ります。そうすれば、私の父はその人を愛し、私たちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
    14:24 私を愛さない人は、私の言葉を守りません。あなたがたが聞いている言葉は、私のものではなく、私を遣わした父の言葉なのです。
    14:25 このことを私は、あなたがたと一緒いる間に、あなたがたに話しました。
    14:26 しかし、助け主、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、私があなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

    ◎メッセージの概要【私の言葉】
    《先週と同じ箇所からの学びとなります。今日はイエス様が言われた「私の言葉」について考えて見たいと思います。イエス様はここで何度も「言葉」と言うことを繰り返し言われています。ではなぜ「言葉」なのでしょうか。
     神様はこの世界をどのように創造されたのでしょうか。創世記の初めによりますと、
    『初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。』と書かれています。創造主は「言葉」によってこの世界を造られたことが分ります。
     使徒ヨハネは、その福音書の初めに、
    『初めに、言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。』と書いています。
     ここから私たちは、イエス様こそが創造主であることを知ることになります。
     またヨハネは、その第Ⅰの手紙の初めにおいて、
    『初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちの言葉について、このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。』と書いています。
     ここでヨハネはとても大切な真理を述べています。それは「私たちが聞いたもの」と言うことです。つまり彼は、イエス様が語られた言葉(音声)を、その耳で直に聞いたと言うことなのです。
     この当時、携帯録音機も、また便利なタブレットも、そしてメモ用紙などはありません。よって、弟子たちはイエス様が言われた教えを覚えるしかなかったのです。ただし私は、取税人マタイとその弟ヤコブは、その職業柄から、簡単な羊皮紙のメモも携帯していたと思っています。
     それだからこそ、イエス様は「山上の垂訓」のような重要な教えを何度も何度も繰り返し群衆に語って教えたのです。
     私たちは人とコミュニケーションを取る時に何を用いますか。言語です。言葉です。
     イエス様が語られた言葉は、まさしく「いのちの言葉」であったのです。
    イエス様は、「あなたがたが聞いている言葉は、私のものではなく、私を遣わした父の言葉なのです。」(ヨハネ14:24)と言われましたが、ここでも非常に重要な真理を語られています。それは「父の思い」ではなく「父の言葉」とうことです。
     かつてイエス様はこのようにパリサイ人や律法学者たちに語りました。
    「私は、自分から話したのではありません。私を遣わした父ご自身が、私が何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。私は、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、私が話していることは、父が私に言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
     ここで「父が言われてとおり」と言われています。ここからイエス様は父なる神様と会話をされておられることが分かります。しかもお互いに語り合ってです。イエス様はアラム語を話されました。当然父なる神様ともアラム語を用いて話されたと私は信じます。
     モーセは、申命記において、神様が言われたことをこのように書き記しています。
    「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」
     これはとても重要な真理です。イエス様が悪魔の誘惑を受けられた時、このみ言葉を用いられました。特に「人は主の口から出るすべてのもの」とは、イエス様が言われた言葉を指しているのです。主の言葉は、父なる神様の言葉なのですから。
     やがてイエス様は、弟子たちから取り去られようとしています。イエス様が昇天された後、今日の聖書箇所の約束が成就します。
    「しかし、助け主、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、私があなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
     弟子たちは、イエス様が語られた言葉を用いて伝道したのです。おそらく二十年以上は、このやり方で信徒を増やして行きました。しかしある時、書物に残す切っ掛けが訪れたのです。それが、ゼベタイの子ヤコブの殉教であり、シモン・ペテロの投獄でした。それゆえマルコがペテロの説教をもとに最初の福音書を執筆したのです。
     イエス様はこのようにも教えられました。
    「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。私があなたがたに話した言葉は、霊であり、またいのちです。」
     この時からイエス様の語られた「霊でありいのち」となる言葉は、文字になったのです。そしてパウロが言うように、聖書は「霊感」で書かれているのです。それは聖霊様が、選ばれた者を通してこの世に現わして下さったものです。
     パウロは言います。
    「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみ言葉によるのです。」
     すべてが聞くことから始まるのです。弟子たちはイエス様の語られた言葉を聞いたのです。言葉は発せられなければ言葉ではありません。言葉は声を通して与えられるものなのです。文字は文字です。
     それでは、生きた言葉となるにはどうしたら良いのでしょうか。語るのです。あなたの口で、主イエス様の言われた神の言葉を語るのです。そうすれば、イエス様の語られた言葉が生きた言葉となり、あなたの耳を通して、あなたの霊に届くのです。
     神様は、私たちの語る言葉を、とても重要視されています。次回もさらに「私の言葉」について考えて見たいと思います。》

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