◇◆◇2018年11月4日第一主日礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書16章16節~20節】 (新約p.195下段左側)
16:16「しばらくするとあなたがたは、もはや私を見なくなります。しかし、またしばらくすると私を見ます。」
16:17 そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、私を見なくなる。しかし、またしばらくすると私を見る。』また『私は父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」
16:18 そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない。」と言った。
16:19 イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、私を見なくなる。しかし、またしばらくすると私を見る。』と私が言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。
16:20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」
◎メッセージの概要【しばらくすると】
《刻一刻と、イエス様の十字架は迫っています。主に残された時間は、本当にあと少しです。
ここでイエス様は、「しばらくすると」と言われましたが、今日の聖書箇所には何と、その言葉が七回書かれています。
さて、「しばらくすると、私を見なくなる」とはどのようなことでしょうか。一つは、もちろん「十字架」です。イエス様は、共観福音書によりますと、三度受難予告をされました。「さあ、これから、私たちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかったのです。彼らには、この言葉は隠されていたからです。
そして、もう一つの意味があります。それは弟子たちは、「イエス様を見なくなる」と言うことです。
彼らは三年半にわたりいつもイエス様と一緒でした。そしていつもイエス様を見ていたのです。しかし、イエス様が捕らえられた時、彼らは逃げ出したのです。イエス様から目が離れたのです。
次にイエス様は、「しかしまたしばらくすると私を見ます」と預言されました。最後の晩餐を終え、エルサレムを後にした時のことを、その場にいたマタイはこう書き記しています。『そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、私のゆえにつまずきます。『私が羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。しかし私は、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」』と。
ここでも再三にわたって「よみがえる」ことを言われ、そしてガリラヤにおいて再び会えることを言われたのです。
やがて、主イエス様が復活された後、マタイは、『十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そしてイエスにお会いした時、彼らは礼拝した。』と、その結末を書き記し、福音書を終えています。
さてイエス様は、彼らに、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」と言われました。
なぜ彼らは「嘆き悲しむ」のでしょうか。それはイエス様がゲッセマネの園において、ローマ兵たちに捕らえられ、やがて十字架にかけられるからです。
しかし世は喜ぶのです。「世」とは、この世の支配者である悪魔とその手下の悪霊どもです。彼らは救い主を殺したことを喜ぶのです。しかし十字架こそが、勝利となるのです。
主イエス様の「十字架の死」は弟子たちをどん底に突き落とし、彼らは悲しみのあまりに絶望してしまいました。しかし三日目に、主イエス様は復活します。
その復活された日の夕方、主が突然、集まっていた弟子たちの所へやって来られたのです。
ルカは、
『これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。
「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。私の手や私の足を見なさい。まさしく私です。私にさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。私は持っています。」それでも、彼らは、嬉しさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。』と書いています。
弟子たちの喜びは、いかばかりであったことでしょう。この時、トマスはなぜか不在でした。
イエス様が復活されてから、四十日にわたって何度も彼らにご自身を現わされたと思います。その事に関しては、聖書には書かれていません。
さて、この時、イエス様は十一使徒たち、そしてご自身に従って来た女たちの涙をすっかり拭いさられました。
このことから、やがて主を信じる者すべての涙を、イエス様が拭い去って下さる時が来ることを、ヨハネはその「黙示録」において、こう預言しています。
『「なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」』と。
イエス様は、十字架にかけられました。そして死んで下さいました。
私たちの罪の為に。
本来私たちが受けるべきさばきを全部背負われて。
しかしそれで終わりではありません。
人は自分の罪の故に死んで行きます。
しかし罪を犯したことのない人が死んだ時、義なる神様は、そのままで終わらせるようなことをなさいませんでした。
父なる神様は、何の罪もないお方をよみがえらせたのです。
だからこそ、弟子たちや女たちは、悲しみが喜びに変えられたのです。
「しばらくすると」
この言葉は、彼らだけのものではありません。私たち、主イエス様を信じる者すべてに与えられた言葉です。
「しばらくすると」
私たちは、やがて主イエス様にお会いする時が必ずやって来ます。その時、この世における悲しみ、苦しみ、痛みも涙も、イエス様が全部洗い流してくださいます。しばらくすると。》