• 2019年4月7日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2019年4月7日第一主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書18章9節~10節】 (新約p.199上段右側)
    18:8 イエスは答えられた。「それは私だと、あなたがたに言ったでしょう。もし私を捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」
    18:9 それは、「あなたが私に下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした。」とイエスが言われた言葉が実現するためであった。

    ◎メッセージの概要【ひとりも失うことなく】
    《今、教会暦はレントを迎えています。来週は、「しゅろの日曜日」となり、そして再来週は、最も喜びの日イースターとなります。
     よって、「ヨハネの福音書」からの学びも、今日で一時中断し、また5月からの再開となります。
     さて先週は、「誰を捜すのか」と言うことからお話させていただきましたが、その続きとなります。
    「この人たちはこのままで去らせなさい。」とイエス様は言われました。
     イエス様は十一弟子たちに、このように預言されました。
    「あなたがたはみな、今夜、私のゆえにつまずきます。『私が羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。」
     これは、イエス様が生まれる500年以上前の、預言者ゼカリヤ書からの引用です。それ故、弟子たちが逃げ出したのは、実は彼らを守る為の神様の計画であったのです。
     さて、三つの共観福音書には、この後の場面が描かれています。
     それは、起き上がったイスカリオテのユダによる裏切りの場面です。
     ルカによれば、
    『イエスがまだ話をしておられるとき、群衆がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。だが、イエスは彼に、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」と言われた。』と。
     この時こそが、主がユダに与えられた最後の悔い改めの機会となります。この言葉は怒りから発せられた言葉ではなく、深い愛と哀れみに満ちている言葉なのです。主は愛しておられ、主はあきらめていないのです。
    「あなたが私に下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした。」とは、「父への祈り」の中において言われた言葉であって、ヨハネだけが聞いていました。
     主イエス様は、このように祈られたのです。
    「私はもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、私はあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたが私に下さっているあなたの御名の中に、彼らを保って下さい。彼らのうち誰も滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。」
     私たちは、主イエス様の言葉から、イスカリオテのユダが最初から「滅びの子」であって、それ故滅びたと取ってしまいがちですが、そうではありません。この祈りには、ユダへの悔い改めと戻って来ることの願いと期待が込められているのです。
     なぜなら、イスカリオテのユダも、父なる神様がイエス様に下された者であり、また父なる神様が十二使徒として選ばれた者なのです。
     ヨハネはこう書き記しています。
    『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』
     父なる神様のご命令は、真に「永遠のいのち」です。主イエス様を信じて、永遠のいのちを受け取ることこそが、願いでありご命令なのです。
     しかし残念なことに、イスカリオテのユダのように、主イエス様を疑い、「永遠のいのち」から、もれてしまう者がいることも事実なのです。
     ヘブル人の手紙の著者はこのように勧めています。
    『ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみ心を行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
    「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。私の義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、私の心は彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。』
     「一人も失うことなく」この言葉は、主イエス様側からの観点からの言葉なのです。十字架の身代わりの犠牲によって買い戻された者たち、そして生まれる前から選ばれた私たちを、一人も失うことがないことを、本当に主イエス様は願っておられます。
     神様は私たちを決してお見捨てにはなられません。私たちを切り捨てられません。しかし私たちの方から、神様を切り捨てることは出来るのです。伸ばされた尊い御手を振り払うことは出来るのです。
     イスカリオテのユダは、主イエス様の伸ばされた手を、残念ながら再び握ることをしませんでした。それは彼の意思であって、運命でもなく、また定められていたのでもなく、彼自らが選んだことなのです。
     「永遠のいのち」か「永遠の滅び」か。どちらかしかありません。中間はありません。人は、この短い人生において、どちらかを選ばなければならないのです。
     日本の一人でも多くの方々が、主イエス様と出会い、共にこの「永遠のいのち」に預かれる様に、私たちは、日々「世の光」として、そして「地の塩」として、主によって、備えられた場所において、非常灯として輝こうではありませんか。》

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