◇◆◇日々のみ言葉
2019年8月9日(金)
◎聖書箇所【使徒の働き14章19節~20節】
14:19 ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。
14:20 しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバと共にデルベに向かった。
◎ショートメッセージ
《引き続き同じ箇所からとなります。しかし、明日は先に行きたいと思います。
後のパウロは、この時のことを書簡に書き記しています。
『私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に(肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。) 第三の天にまで引き上げられました。
私はこの人が、パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできない言葉を聞いたことを知っています。
このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。
また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせて下さるようにと、三度も主に願いました。
しかし、主は、「私の恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(第Ⅱコリントの手紙12:2~12:9)』と。
この経験こそが、この「石打ちの刑」の時なのです。パウロが石で打たれたことは、この時だけです。
『むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。(第Ⅱコリントの手紙11:25)』
また、この時、石で打たれたことにより、大きなハンデを背負ったことは事実で、それがパウロが言う「肉体のとげ」なのです。主イエス様は、この時あえてそれをいやされなかったのです。
パウロはこう言っています。
『そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。(ガラテヤ人への手紙4:14~4:15)』
ここから、パウロは顔に、特に目の辺りに大きな傷を負ったと私は考えます。パウロは立ち上がって、この顔で、もう一度町の中に入って行ったと確信します。
だからこそ、まだその場に残っていて、パウロに石を投げたユダヤ人指導者たちは、恐れたのです。つまり、死体がよみがえって歩いて来たと思い、彼らは逃げたのです。彼らはもう一度、石を投げようとはしませんでした。なぜなら、彼らは、パウロが死んだことを知っていたからです。
そうです。すごい傷のある顔で、死体が、町の中に入って来たと言うわけです。
主イエス様は、彼に言われました。
「私の恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と。》