• 2019年8月18日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2019年8月18日第三主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書18章38節~40節】 (新約p.200下段左側)
    18:38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちの所に出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。
    18:39 しかし、過越の祭りに、私があなたがたの為にひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたの為に、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」
    18:40 すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ。」と言った。このバラバは強盗であった。

    ◎メッセージの概要【釈放するならわしとは?】
    《ヨハネは、ローマ総督ポンテオ・ピラトによる最終(第三回政治裁判)の場面をたった三節に、短く書き記しています。それは詳しいことが三つの共観福音書に書かれてあるからです。
     マルコによりますと、『ところでピラトは、その祭りには、人々の願う囚人をひとりだけ赦免するのを例としていた。』と書かれています。
     これは、ピラトがエルサレム総督に赴任した際に、思いついたことです。それは少しでもユダヤ人に気に入られようとしてやったことですが、もう一つは、過越の祭こそが一番暴動が起きやすい時期であって、あえてこの時に、十字架刑による死刑を実施していたことは、見せしめと言う意味からも考えられることです。
     ところで、「十字架刑」とは、ローマ帝国に対する反逆者が、ローマ兵によって執行される最も残酷な死刑であります。
     どうしてピラトは、「過越の祭」に『人々の願う囚人をひとりだけ赦免する』ことを、思いついたのでしょうか。
     ユダヤ人の男子は「モーセ五書」をすべて暗誦していますから、その「モーセ五書」から何らかのヒントを得たことは、間違いありません。そして最もその可能性が高いのが、大祭司アロンによる「スケープゴート」すなわち「アザゼル」のことです。
     レビ記にこう説明します。
    『アロンは二頭のやぎの為にくじを引き、一つのくじは主の為、一つのくじはアザゼルの為とする。アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪の為のいけにえとする。アザゼルの為のくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをする為に、アザゼルとして荒野に放つ為である。』
     これがどのようなことなのかは、かなり解釈が難しいのです。
     聖書辞典によりますと、「アザゼル」とは、『贖罪の日に一頭のやぎを選び、その上に民の罪を負わせ、アザゼルとして荒野に放った。このアザゼルの意味について多くの解釈が試みられている。野に送られるやぎのこととされ、また不定詞として、移動、除去、解放を示す。この原語のヘブル語は、アーザル(除去する)の強い意味の語で、「全き除去」「罪の全き赦し」の意味にとる方が、このやぎの持つ役割から妥当と思われる。』とのことです。
     つまり、一頭のやぎは生け贄として犠牲になるのですが、もう一頭は、そのやぎによって罪をアーザル(除去され)「全き除去」「罪の全き赦し」を得て、自由にされ解放されると言う意味であると思われます。
     主イエス様が公生涯における「過越の祭」の「都上り」は今回が4度目になります。主イエス様は、十二使徒たちに3度にわたって「受難予告」をされました。特に最後の受難予告において初めて「十字架」を予告されるのです。
    『「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられる為に引き渡されます。」』と。もちろん復活(よみがえり)のことも預言されます。
     ポンテオ・ピラトは十字架を三本用意しました。一番真ん中の十字架は、ローマに対する暴動で人殺しをした主犯バラバの為に用意されたもので、この時、他の暴徒たちと共に牢に入っていたのです。暴動とは、明らかにローマ帝国に対する反逆です。しかし民衆は、パリサイ人や律法学者たち、あるいは祭司長や祭司たち、ユダヤの長老たちによって扇動され、「バラバ」を「アザゼル」として解放することを願ったのです。
     そして、ついにその声が勝って、ピラトは主イエス様を十字架につける為に、ローマ兵の部下に手渡します。
     イエス様は、本来は自分の為ではなく、バラバに用意されていた十字架に、バラバの身代わりとして、掛かられるのです。まさに罪の無いものが罪人の身代わりとして十字架に掛かり、死んで行くのです。そしてバラバは解放され、野に放たれます。
     しかし、この十字架があるからこそ、この地上に、この世に、私たち人間に、「真の救い」がやって来たのです。
     使徒パウロはこう言っています。
    『私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私の為にご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』
    『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。』と。
     ポンテオ・ピラトが総督に赴任した時、ユダヤ人の人気取りと共に、暴動への見せしめとして考え出した「過越の祭」における「釈放するならわし」によって、主イエス様は、ご自身の受難予告の通りに十字架につけられ死んで下さいます。その時「アザゼル」として解放されたのは、バラバでしたが、本当は私たちなのです。私であって、あなたなのです。》

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