◇◆◇日々のみ言葉
2019年9月25日(水)
◎聖書箇所【使徒の働き16章12節】
16:12 それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。
◎ショートメッセージ
《パウロとシラス、そして助手テモテと医者ルカの異邦人伝道チームは、トロアスから船に乗り、船は順調にサモトラケに直航し、そこで停泊して、翌日ネアポリスに着いたのです。おそらく、航海には最高の日和りであったことかと思われます。
当時の船にはもちろん動力などありませんでしたから、人力もしくは風の力での船旅でしたので、一旦海が荒れれば、即遭難と沈没の危険にさらされたのです。
パウロは、後にこのように振り返って、船旅のことを書簡に書き記しています。
『私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(第Ⅱコリント11:23~11:27抜粋)』
ここから難船したことが3回あること、しかも最後の難船はローマへの旅でした。しかし、それは一昼夜海上を漂ったことではありませんから、その前の2回のうちどれかが、まさに死に直面したことになります。
さてネアポリスからピリピまでは、16キロほどですから、一行は歩いてピリピに行きました。
その当時のピリピは、マケドニヤ州の首都テサロニケに次ぐ大きなメガポリスであって、植民都市でありました。
この町は、その昔、アレクサンドロス大王の父、マケドニヤの王フィリップ二世が建設した町です。その為、フィリップの町、すなわちピリピの町と呼ばれるようになったのです。
紀元前41年に、この町においてローマのオクタヴィアヌスとアントニウスが、カシウスとブルートスを破った場所として有名でもあったのです。
この「ピリピ戦争」の後、「コロニア・ユリア・フィリペンシスと改名され、その記念にオクタヴィアヌス、後の皇帝アウグストがこれを植民都市として、ローマの退役軍人を住まわせたのです。
ローマ市民がローマで受けたのと同じ特権、つまり自治権、租税の免除、その他イタリヤ本土に移住した場合と同等の権利が与えられ、まさしく小ローマでありました。
またローマ市民は、例え犯罪を犯しても、むち打ち刑や十字架刑の極刑は免れると言う特権もありました。
ところでパウロは生まれながらのローマ市民でありましたが、生まれ故郷はタルソで、彼は本国ローマにはまだ一度も行ったことがなかったのです。
よってローマを知るには、当時小ローマと呼ばれていたピリピは、まさに絶好の機会であったと言えるでしょう。》