◇◆◇2019年9月29日第四主日礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書19章28節~30節】 (新約p.202下段左側)
19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「私は渇く。」と言われた。
19:29 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
◎メッセージの概要【「私は渇く。」「完了した。」】
《主イエス様の十字架の場面の続きからの学びとなります。今日は、イエス様が十字架上で語られた7つの言葉から学んで行きます。
最初の言葉は、「父よ。彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」
これは、ローマ兵たちへの取りなしの祈りです。もしかしましたら、イエス様が埋葬された新しい墓の見張りをしたのも、この4人ではないでしょうか。
次の言葉は、同じく十字架につけられていた強盗の一人に「まことに、あなたに告げます。あなたは今日、私と共にパラダイスにいます。」
そして先週学んだ箇所から、母マリヤに「女の方。そこにあなたの息子がいます。」
そして、続けて愛する弟子ヨハネに、「そこにあなたの母がいます。」
その次に言われた言葉は、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」であり、そして五番目に「私は渇く。」なのです。
ヨハネは、「すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するため」にイエス様が言われたと、言っています。
この預言は、ダビデによる詩篇22篇に描かれ、「十字架の描写」と言われています。そして詩篇69篇には、「私が渇いたときには酢を飲ませました。」と、描かれています。
しかし、ただそれだけでイエス様は「私は渇く。」と言われたのでしょうか。十字架上で語られた7つの言葉は、決して意味のない言葉ではなく、深い意味があるはずです。
さて、その少し前に言われた言葉が、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」でした。
この時、主イエス様から聖霊が取り去られたと私は考えます。だから、「私は渇く」と言われたのです。以前、ヤコブの井戸で、水を汲みに来たサマリヤの女に、このように言われました。
「この水を飲む者は誰でも、また渇きます。しかし、私が与える水を飲む者は誰でも、決して渇くことがありません。私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と。
これは聖霊降臨を意味しています。よって、イエス様から聖霊が離れられたことは間違いありません。なぜなら、三日目にイエス様をよみがえらせたのは、聖霊なのです。それゆえ、一度離れる必要があったと思われるのです。
次に、イエス様は大声で叫ばれて、息を引き取られました。ルカはその言葉が、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」であったことを書き記しています。
そして一番最後に言われた言葉が、「完了した。」です。この言葉を耳にしたのは、ヨハネだけです。それでは、いったい何が完了したのでしょうか。それは、イエス様に与えられた任務が完了したことを意味しています。
『「私が来たのは律法や預言者を廃棄する為だと思ってはなりません。廃棄する為にではなく、成就する為に来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」』
イエス様は、人としての人生において、すべての律法を守り、律法全部を成就する為に来られました。イエス様は、何一つ罪を犯されませんでした。しかし、私たちの身代わりとして、本来は死ぬべきではないにも関わらず死んで下さいました。なぜなら、罪の代価は、「死」であり「血を流す」ことなのです。人は自分の罪ゆえに死んで行くのです。
しかし、この時に「救いの御わざ」が完了したのではありません。救いの御わざが完成するのは、三日目にイエス様がよみがえられた時なのです。もし十字架の死で終わってしまったら、私たちは一番みじめな者で、以前救いはなく、まっ暗闇の中に留まったままです。
福音とは、「復活」なのです。「よみがえり」なのです。そして「永遠のいのち」なのです。
使徒パウロは、このように「福音」を定義しています。
『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。』
主イエス様は、間もなく再臨され「死」をも滅ぼされます。ハレルヤ!》