• 日々のみ言葉 2019年10月18日(金)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2019年10月18日(金)

    ◎聖書箇所【使徒の働き17章1節】
    17:1 彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂があった。

    ◎ショートメッセージ
    《今日から「使徒の働き」の学びも、17章に入ります。

     さて、パウロとシラス、そしてテモテと医者ルカの4人は、ピリピを後にしました。そして、まずピリピの南東50キロほどの所にあるアムピポリスにやって来たのです。
     アムピポリスとは、「丸く取り囲まれた町」という意味です。この町はアテネ人が紀元前437~436年頃に植民地として設けた町で、ストリモン川がこの地の西側を囲むように流れていたところから、この町の名がつけられたとのことです。
     ローマ治世下にあっては、自由都市に昇格し、4つの行政区に分けられたマケドニヤの南東部の首都となりました。この町はバルカン半島を横断してローマとアジヤを結んだエグナティア街道の重要な軍事的、商業的拠点でもあったのです。

     そして、アムピポリスから南西に約45キロ行くと、アポロニヤがあります。これは、「アポロに属する所」という意味で、アポロとは、ローマ神話の太陽神を指します。ボルベー湖の南に位置する所にあります。
     この町の設立は紀元前432年頃と言われています。何と紀元前4世紀(400年前)に存在していたことを明らかに証明する硬貨が現存しています。
     このようにパウロ一行は、ピリピからエグナティア街道を西に進み、南西50キロの所にあるアムピポリスを経て、さらにその南西45キロに位置するアポロニヤを通って、さらに60キロ離れたマケドニヤの首都テサロニケに着いたのです。

     パウロがアムピポリスとアポロニヤにとどまって伝道したと言う記録は残っていません。マケドニヤの主要都市であったにもかかわらず、伝道せず通過した理由は不明であるようです。そして「テサロニケ」にやって来たのです。

     テサロニケは、 紀元前315年頃マケドニヤの王カサンドロスが近隣の26の町村の住民を集めて新しい町を創設したのであって、妻テサロニカ(アレクサンドロス大王の異母妹)にちなんでテサロニケと命名されました。
     現在は、トルコ領であった時には、サロニキと呼ばれていましたが、1913年ギリシヤ領土となって以来、昔の名前に戻りテッサロニキと呼ばれ、アテネに次ぐギリシヤ第2の都市となっています。マケドニヤのテルマ湾の北端に位置する海港で、港として絶好の地でもありました。

    マケドニヤがローマの所領となり、統治上4つの地区に分割された時、テサロニケはそのうちの一地区の首都になりました。
     紀元前146年には、それら4地区が再び統一され、ローマの属州マケドニヤとなり、テサロニケがその首都となったのです。
     また、この時代にテサロニケは「全マケドニヤの母」とも呼ばれ、紀元前42年には自由都市となり、「町の役人」が市政をつかさどっていました。
     テサロニケが通商上重要な地位を占めたのは、良港のためだけではなく、ローマ東方諸国をつなぐ大街道(エグナティア街道)に沿っていたからです。
     パウロが第2回伝道旅行で訪れた時には人口は12万人と推定されます。

     テサロニケにはユダヤ植民地も多数あり、会堂も建設されていました。このようにテサロニケには種々雑多な人々が住み、多くの民族と宗教とが共存していたのです。
     この町にパウロ一行が遣わされて来たのは、真に主イエス様のご計画であったのです。》

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