◇◆◇2019年10月27日第四主日礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書20章1節~10節】 (新約p.203下段右則)
20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
20:4 ふたりは一緒に走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。
20:6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、
20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布と一緒にはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
20:8 そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。
20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
20:10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
◎メッセージの概要【ペテロとヨハネの場合】
《ヨハネの福音書の学びも、いよいよクライマックス、「主イエス様の復活」へと入って行きます。イエス様がゲッセネマにおいて捕えられた時、弟子たちは二手に分かれました。
ヨハネは、『シモン・ペテロともうひとりの弟子は、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いで、イエスと一緒に大祭司の中庭にはいった。しかし、ペテロは外で門の所に立っていた。それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出て来て、門番の女に話して、ペテロを連れてはいった。』と書いています。
今回のメッセージは、ヨハネとペテロとの二人の関係について考えて見ることにします。
聖書は明確にしてはおりませんが、十二使徒の中ではシモン・ペテロが一番年上であって、ヨハネが一番若かったことは間違いありません。しかもゼベタイの子ヤコブとヨハネは、イエス様の従兄弟にあたります。母マリヤの妹であるサロメの子です。
イエス様は、なぜかペテロとヨハネをチームのパートナーとして命じられました。
『さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「私たちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」』と。 また使徒の働きにおいても、二人はチームとして神殿に祈りに行ったことが証しされています。「美しの門」の出来事です。
さて、イエス様の十字架の側にいた十二弟子は、ヨハネとペテロの二人だけです。残りの九人の弟子たちは、ゲッセマネを逃げ出し、ベタニヤのマルタとマリヤの所に身を寄せたと考えられます。
さて、主イエス様の埋葬の時まで、場面を少し戻しますと、マルコの福音書によれば、
『そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。』となっています。
この時、アリマタヤのヨセフの「新しい園の墓」まで、ペテロとヨハネが同行していたことは確実です。
だからこそ、マグダラのマリヤが、走って、ペテロとイエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、
「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
と言った時、二人は、墓のほうへ走って行けたのです。場所を知っているからです。
また、マグダラのマリヤ、サロメや他のマリヤとペテロとヨハネは、安息日を同じ場所で過ごしたのです。聖書には書かれていませんが、エルサレム市内にあるゼベタイの家であったことも間違いありません。なぜなら、嘆き悲しむ姉マリヤの側にサロメがいる為に。
「大祭司の知り合い」であるヨハネ、また「イエス様の従兄弟」であるヨハネ、そして「イエス様が最も愛された弟子」ヨハネ。ペテロの心の中には、ヨハネに対する「嫉妬」あるいは「劣等感」があったことは否めないことではないでしょうか。
しかもヨハネは、実の弟アンデレと共に、バプテスマのヨハネの弟子でもあったのです。
それだけではありません。あの「大祭司の庭」において、ペテロは、イエス様の預言通りに、三度にわたってイエス様を否定します。そして鶏が鳴きます。ヨハネは見ています。
この後ペテロは外に出て激しく泣きますが、ペテロの心の中は、ヨハネに対する劣等感だけでなく、自己嫌悪や罪悪感、自我への怒りと失望で溢れていたのではないでしょうか。
しかし、真の神様イエス様は、そのことをすべてご存じであられました。だからこそ、二人が「園の墓」にやって来て、墓にはいり、まるで抜け殻のように亜麻布が置いてあったのを見た後に、帰路についたペテロに、イエス様は、一番最初に現われて下さったのです。
またルカによりますと、週の始めの日の夕方、エマオの家からクレオパ夫妻がエルサレムに戻ってみますと、十一使徒とその仲間が集まって、「本当に主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていたことが書かれています。
所で、ヨハネが墓からの帰路に、イエス様は彼に現われたのかどうかは、ヨハネは沈黙しています。私は現われなかったと信じます。なぜならヨハネ自身は、『その時、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て信じた。』と書き記しているからです。
週の始めの日、イエス様が復活されたその日、主は十一弟子が集まっていた場所に、現われます。その時なぜかトマスはおりませんでした。その一週間後に、同じような場面にイエス様は現われて下さいます。
「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
今、私たちはトマスのようにイエス様を見ることも触れることも出来ません。しかしそうでなくとも信じています。それは聖霊によってです。
さてガリラヤ湖において、ペテロはヨハネを見て、質問します。
「主よ。この人はどうですか。」
「私の来るまで彼が生きながらえるのを私が望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、私に従いなさい。」
このペテロの質問こそ、ヨハネに対する劣等感の表われなのです。私たちは比べてしまうのです。人と。あるいは置かれた環境や立場。あるいは名声や地位や富。そして比べて、どうしても「劣等感」を抱いてしまうのです。
イエス様は、間違いなくペテロを十二使徒の指導者として任命されたのです。それにも関わらず、ペテロはヨハネと自分を比べたのです。
比べる必要はありません。また劣等感を持つ必要はないのです。主イエス様は、私たち一人一人をそのままで、あるがままで召し出され、そして選ばれ、そして用いて下さるのです。 そして私たちをあるがままで、そのままで、すべてを受け入れ愛して下さっておられます。
私たちは、皆一人一人違っています。生まれも環境も、そして賜物もです。
しかしそのように造られたのです。私たちはそのように創造されたのです。そして主は、一つだけ私たちに要求なされます。それは「あなたは、私に従いなさい。」と言うことです。
「従う」ということは、自分の思いや考えではなく、主の思い、すなわち「み言葉」に従うことです。「忠実なしもべ」とは、主人の言いつけを守った者に言われる褒め言葉なのです。》