◇◆◇2020年1月26日 第四主日礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書21章1節~11節】 (新約p.229上段右側)
21:1 その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。
21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。
21:3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。
21:4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。
21:7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。
21:8 一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキス(100メートル)ほどの距離だったからである。
21:9 こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。
21:10 イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
21:11 シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。
◎メッセージの概要【再びガリラヤへ(破れなかった網)】
《今週から「ヨハネの福音書」に戻ります。いよいよ最後の21章に入ります。
主イエス様は、十字架にかけられる前に、最後となる「過越の祭」に巡礼されました。その時、エルサレムへの道において、受難予告を三回ほどなされます。そのさいに、「私はあなたがたより先にガリラヤへ行きます。」と伝えています。しかし、この時の十二使徒には、主の言われていることが全く理解出来ませんでした。
主が復活された時、女たちにさずけた弟子たちへの伝言は、やはり最初の命令でした。
『すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、私の兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に会えます。」』
それから十一使徒は、イエス様の最初の命令を受けて、ガリラヤへ向かいます。彼らが向かった場所は、かつてガリラヤ伝道の拠点となったシモン・ペテロの家です。
そして主が来られるまで待機していた場面が21章なのです。この時弟子たちは二手に分かれます。すなわちペテロの家で留守を守る者と、漁に行く者とにです。
『シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子』の合計七人が、漁に行き、残りの四人は待機します。 しかし、その夜は何も捕れませんでした。実はこの事も神様のご計画であって、かつての奇跡を再び体験させる為でもあったのです。
イエス様が、ガリラヤ伝道を始められた頃に、ペテロと弟アンデレ、ゼベタイの子らは、大漁の奇跡を体験します。
「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、お言葉ですので、網を下ろしてみましょう。」
ペテロとアンデレが言われたとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになったのです。
そして二回目の今回です。主は言われます。
「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」
そこで、彼らは網を打ったのです。すると、おびただしい数の魚のために、網を引き上げることができなかったのです。網は百五十三匹の大きな魚で一杯でした。それほど多かったのに、網は破れていなかったのです。
ここに大切な真理があります。それは最初の大漁の時も、そして今回の大漁の時にも「網が破れなかった」と言うことなのです。つまり彼らは、何度も網が破れた経験をしているのです。このぐらいの大漁になりますと、普通網は破れることを意味しています。主が網を守られ支えられ、かかった魚が逃げないようにして下さったのです。網とは仕事、職業、生活のことです。
弟子たちが岸辺に着くと、そこには何と主イエス様が食事を用意されておられました。この時、十一弟子たちが食べる分は足りなかった、とは私は思わないのです。イエス様は、すでに彼らの朝食を、十分に用意されておられました。しかしあえて彼らに、捕れた獲物を持って来るように言われたのです。
それは、彼らが捕って来た魚は、本当は必要ないことを教えられたのです。まさしくイエス様が「山上の垂訓」において約束された通りです。
『「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」』と。
ここで言う「明日」とは何を指すのでしょうか。いいえ、「誰」をと言っても良いでしょう。それはイエス様を指しているのです。つまり、「明日」のことは、「主」が心配して下さるのです。私たちがすべきことはただ一つ、神の国と神の義を求めることなのです。》