◇◆◇2020年3月29日 第五主日礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書12章1節~8節】 (新約p.207下段真中)
12:1 さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。
12:3 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
12:4 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。
12:5 「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。
12:7 イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、私の葬りの日のために、それを取っておいたのです。
12:8 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、私はいつも一緒にいるわけではありません。」
◎メッセージの概要【過越の祭の六日前に】
《レントに入っています。今日は「シュロの日曜日」の六日前の出来事からです。4月5日から受難週に入り、4月9日が「聖金曜日」となります。イエス様が、すべての人の罪の為に十字架につけられた日であり、その三日後4月12日(日)がイースター礼拝となります。
さて、主イエス様と十二使徒たちは、公生涯における4度目に当たる「過越の祭」の為に、都上りをして来られました。そしてその六日前に、ベタニアの村にやって来たのです。そこにはすでにラザロがいましたから、ラザロのよみがえりは、数週間前になるかと思われます。
さて、マルタとマリヤ姉妹のことは、ルカだけが書き記しています。
『イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主の言葉に聞き入っていた。ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。
「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃって下さい。」主は答えられた。
「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」』
ここから、この姉妹の異なった性格が見えて来ます。マルタは、イエス様と弟子たちを、おいしい食事で持てなすことを心がけ、妹のマリヤは、イエス様の側にいて、その教えに聞き入っていたと言うのです。マルタの心遣いも、そしてマリヤの態度も、イエス様は喜んで受け入れておられます。どちらも大切なのですが、一番大切なことは、イエス様のみ言葉に耳を傾けることなのです。もちろんマルタのしていたことも大切なことです。
さて、マルコとマタイの福音書には、今日の聖書箇所と同じ平行記事が記載されています。
『イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。』と。
この家がライ病をいやされたシモンの家であって、姉妹の名前も伏せられており、マリヤは、単に「女の人」となっています。おそらく、あえてこのようにしたのだと思われます。 しかしヨハネは、マルコとマタイの福音書が書かれてから、約半世紀後に「第四福音書」を書き記しましたから、ここでは明確に名前を挙げているわけです。
マリヤは、花嫁道具であり、しかも娘が生まれてから、両親が少しずつ買い足していった貴重な、純粋のナルドの香油300グラムを惜しみ気もなく、主イエス様の足と頭に降り注ぎ、髪の毛でぬぐったのです。マリヤは、「十字架」の為に埋葬の準備をされたことを、主ご自身が弁解しておられます。弟子たちは、何度も受難予告を受けながらも、何が起こるのか、全く理解していませんでした。しかしマリヤは分かっていたのです。
これから私たちは、「十字架」と「復活」を迎えるわけですが、改めてクリスチャンのアイデンティティーとは何かを考えて見たいと思います。
イエス様は、十字架に掛かられる前に、弟子たちの為に、父なる神様に祈られました。
『「私は彼らにあなたのみ言葉を与えました。世は彼らを憎みました。私がこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。私がお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守って下さることです。私がこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。』と。
悪魔は「死」を持って来ます。しかし主イエス・キリストは「命の君」なのです。私たちは、主の「十字架」と「復活」によって、買い戻された者です。そして「永遠のいのち」が与えられています。よって、神様が許可されなければ、悪魔は私たちに指一本触れることは出来ません。
主イエス様は、「過越の祭」の六日前にベタニヤに来られました。そして「シュロの日曜日」まで、そこに留まられ、多くの人々を教え、また病をいやされたのです。》