◇◆◇日々のみ言葉
2020年8月25日(火)
◎聖書箇所【マタイの福音書5章4節】
5:4「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」
◎ショートメッセージ
《昨日は、最初の幸いの教えから学びました。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」
これは、誤訳であって、現代訳聖書では、
「ああ、何と幸いなことでしょう、心のへりくだっている人たち。神様が、その人たちに御国を下さっています。」
となっており、その真の意味を十分に捉えています。
さて、今日は二つ目の教えです。
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」
今回も、尾山令仁師の現代訳を見てみましょう。
「ああ、何と幸いなことでしょう、悲しんでいる人たち。神様が、その人たちを慰めて下さいます。」
新改訳では、「悲しむ者」となっており、これは一般論的にも聞こえて来ます。しかし現代訳では、「悲しんでいる人たち」と訳されており、今実際に悲しんでいる人に向けて語られていることは明白なのです。
そして「その人は慰められるからです。」では、まったく力が伝わっては来ません。
しかし「神様が、その人たちを慰めて下さいます。」と言う訳であるならば、何と慰めに満ちた主イエスの言葉であるのかが、伝わって来るのです。
主イエスは「悲しみ」を知っておられたのでしょうか。聖書には書かれてはおりませんが、バチカン図書館にあります「第一世紀の公的記録」によりますと、主イエスの育ての父であったヨセフは、主イエスが26歳の時には、まだ存命していることになっています。しかし、主イエスが公生涯を始められた30歳の時には、母マリヤはやもめになっています。
母マリヤには、両親がおり、またヨセフにも両親がいたはずです。主イエスにとっては、どちらも祖父母になるはずです。
主イエスが人として過ごされた時に、両方の祖父母を見送ったことは明白です。しかし、一番大きな悲しみは、やはり自分自身を育て、大工として育ててくれた、義父ヨセフの死であると思うのです。
イザヤはこう言っています。
『彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。(イザヤ書53:3前半)』と。
主イエスは、家族の死を経験し、また病がどのようなものなのか、人として知っておられたことは疑いようのないことです。それゆえ、主は慰めることが出来るのです。》