◇◆◇2020年10月18日 第三主日礼拝
◎本日の聖書箇所【使徒の働き5章33節~42節】
5:33 これを聞いて、彼らは怒り狂い、使徒たちを殺そうと考えた。
5:34 ところが、民全体に尊敬されている律法の教師で、ガマリエルというパリサイ人が議場に立ち、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、
5:35 それから議員たちに向かってこう言った。「イスラエルの皆さん、この者たちをどう扱うか、よく気をつけてください。
5:36 先ごろテウダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどになりました。しかし彼は殺され、従った者たちはみな散らされて、跡形もなくなりました。
5:37 彼の後、住民登録の時に、ガリラヤ人のユダが立ち上がり、民をそそのかして反乱を起こしましたが、彼も滅び、彼に従った者たちもみな散らされてしまいました。
5:38 そこで今、私はあなたがたに申し上げたい。この者たちから手を引き、放っておきなさい。もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう。
5:39 しかし、もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすると、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」議員たちは彼の意見に従い、
5:40 使徒たちを呼び入れて、むちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと命じたうえで、釈放した。
5:41 使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った。
5:42 そして毎日、宮や家々でイエスがキリストであると教え、宣べ伝えることをやめなかった。
◎メッセージ【ガマリエルの忠告】
《ユダヤ最高法院は、使徒のリーダーのシモン・ペテロの発言を聞き、祭司長や祭司たちサドカイ人は、怒り狂い、使徒たちを殺そうと考えたようです。まさに主イエスの裁判の時と同じ状況に追い込まれたと言うわけです。そこに、律法学者でパリサイ派に属するガマリエルが、立ち上がります。そして使徒たちを、一時外に退去させるのです。
よって、この後の記事は、最高法院の者でなければ、書き記すことが出来ない内容となります。このことからも、若きサウロが議員であって、この場に同席した証拠と言えるのです。 さてガマリエルは話し始めます。
「イスラエルの皆さん、この者たちをどう扱うか、よく気をつけて下さい。」
そして「テウダ(チゥダ)」は、ユダヤ歴史家ヨセフォスによりますと、紀元前4年ヘロデ大王が死んで後、ユダヤに起った多くの反乱の首謀者の中の一人であったとと言うことです。
そして次に、住民登録の時に「ガリラヤ人のユダ」が立ち上がり、民をそそのかして反乱を起こしたことに言及しています。
実は最初の住民登録がルカに書き記されています。この勅令があったからこそ、主イエスは預言通り、ダビデの町ベツレヘムにおいて生まれます。そして二回目の住民登録は、ヨセフォスによりますと、紀元6年に行なわれ、その時ユダが反乱を起こしたということです。
大切な真実があります。ガマリエルはこの二つの事件を直に知っています。そればかりではありません。主イエスがお生まれになる頃には、すでに成人しラビとして活躍していました。バチカンの一世紀の公的記録には、最高法院から遣わされ、ベツレヘム郊外の羊飼いに何と彼はインタビューしています。
さて、ガマリエルは忠告を続けます。
「そこで今、私はあなたがたに申し上げたい。この者たちから手を引き、放っておきなさい。もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう。しかし、もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすると、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」と。
この忠告と勧めの言葉によって、怒り狂っていた議会は静り、ガマリエルの忠告を聞き入れ、使徒たちは釈放さるのです。彼に聖霊が働いたと言っても良いのではないでしょうか。
さて、ガマリエルについて考えて見ましょう。サウロは彼の弟子にあたります。
「私は、キリキアのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しく教育を受け~」たと。
ガマリエルとは「神の報い」という意味です。ユダヤ教の伝承によりますとヒルレルの孫となっています。ヒルレルは、パリサイ派の中のヒルレル派を造ります。その主義は、神の愛と隣人愛を強調したものでありました。
よってガマリエルは、ヒルレル派の属し、最高法院の議員でもあったのです。当時、エルサレムにおいてガマリエルは非常に尊敬されていました。「ラビ」(私の教師)よりももっとすぐれた尊称である「ラバン」(私たちの教師)と呼ばれていました。タルムードによれば、紀元50年頃死んだと伝えられています。
サウロ(後のパウロ)の恩師でもあったガマリエル。紀元50年頃に死んだとすれば、最低でも80歳以上長生きした可能性が高いと思われます。ガマリエルは終生エルサレムに留まりました。この恩師が救われることを、弟子のサウロは願わなかったのでしょうか。
実は、ガマリエルが存命であった頃に、ダマスコ途上で改心したサウロは、その後、三回ほどエルサレムに上っています。救われて間もない紀元37年。またアンテオケ教会に属していた頃、大飢饉の時に、献金を携えて上京した紀元48年。そして「第一回教会会議」が行なわれた紀元49年から50年にかけてです。
特に紀元50年頃は、ガマリエルが召される頃と一致します。もしかしたら恩師の最後をも看取ることができたのではないでしょうか。
聖書には書かれてはいませんが、パウロは恩師ガマリエルに自分の体験や伝道旅行のことを報告したと思われます。そして、パウロを通して救われ、クリスチャンになったのかも知れないのです。だからこそ、「ミシュナ(口伝律法集)」に、「長老ラバン・ガマリエルが死んで以来、もはや律法に対する畏敬と純潔や節制は、まったく失せてしまった」とまで書かれたのです。つまりその人柄こそが、当時最も尊敬された証しとしるしなのではないでしょうか。》