◇◆◇日々のみ言葉
2020年10月31日(土)
◎聖書箇所【マタイの福音書6章28節~30節】
6:28「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、私はあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 今日あっても、明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装って下ださるのだから、ましてあなたがたに、よくして下さらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」
◎ショートメッセージ
《昨日と同じ箇所からとなります。
今日は特に、6章30節から考えて見たいと思います。
『「今日は咲いていても、明日は炉に投げ込まれてしまう野の草でさえ、神様はこれほど美しい装いをお与えになっておられるのですから、まして、人間であるあなたがたに、それ以上のことをして下さらないわけがあるでしょうか。ああ、なんと小さな信仰なのか。」(マタイの福音書現代訳6:30)』
新改訳聖書と現代訳聖書を比較しますと、主イエス様の言われた最後の言葉が、大いに異なっていることに気が付きます。
「信仰の薄い人たち」
「ああ、なんと小さな信仰なのか」
新改訳聖書では、主は弟子たちに目を向けて、言われているように感じます。しかし現代訳聖書では、その人たちではなく、その人たちの持つ信仰そのものに焦点を当てて言われているとも感じ取れるのです。
この文脈から、「小さな信仰」と「大きな信仰」があることが分かります。「小さな信仰」とは、救われて間もない者が持っている初歩的段階の信仰とも言えるでしょう。
主イエスを信じ受け入れ、罪赦され、永遠のいのちを与えられましたが、衣食住に対する心配や思い煩いを、以前と変わらず持ち続けている信仰とも言えそうです。
そして「大きな信仰」とは、主イエス様の言葉を信じ、絶対的に主を信頼し、主に従って行くと言う信仰です。私たちは、そのような「大きな信仰」を持つべきであり、また信仰を成長させて行く責任があるとも言えるでしょう。
それでは、どうしたらそのような「大きな信仰」へと信仰を成長させて行くことが出来るのでしょうか。
それは、主イエス様が与えられる「試練」こそが、その良い機会となるのです。誰でも、試練は、出来ることなら御免こうむりたいと願うのが人の常です。しかし、それでは「大きな信仰」を持つことは出来ません。なぜなら、信仰を自分で磨くことは出来ないからです。信仰は、磨かれるのです。ダイヤモンドの原石が磨かれて宝石になるように。
そして試練を克服した時、主イエス様にこう言って下さいます。
「安心して行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と。》