◇◆◇日々のみ言葉
2021年1月3日(日)
◎聖書箇所【ヨハネの福音書20章19節~22節】
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父が私を遣わしたように、私もあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
◎ショートメッセージ
《引き続き、2021年の年頭聖句の箇所からとなります。
「平安があなたがたにあるように。」
「平安」とは、無事で穏やかなこと、安息であると、広辞苑は解釈しています。弟子たちは恐れていました。ところで彼らは何を、いや誰を恐れていたのですか。
ユダヤ人です。ところで彼らもユダヤ人ではないのですか。弟子たちも、またその場にいた大勢の人々も皆、ユダヤ人です。それでは彼らは同胞を恐れていたのでしょうか。
ここでヨハネが書き記しています「ユダヤ人」とは、一般的な理解である「選民ユダヤ人」ではなく、最高議会に所属する指導者たち、パリサイ人や律法学者たち、民の長老たち、すなわち当時の権威・権力者たちを指しているのです。
しかし真理は事実は、ただ一つです。彼らは「人」を恐れたのです。もちろんそれだけではありません。主イエス様が十字架にかけられ死んでしまったのですから、彼らは自分たちが置かれた境遇、そしてこれからどうやって生きて行くのか、あるいは生活して行くのか、行く先々を、すなわち未来を恐れたのです。
十二使徒は、主イエス様の約三年半にもおよぶ奇跡と不思議としるしに満ちた公生涯の時を共に歩みました。その彼らでさえ恐れたのです。恐れは不安を引き起こします。不安の反意語こそが、平安なのです。
「平安があなたがたにあるように。」
こう言われてから、主は、十字架につけられた時に、犬釘を打たれたその手の跡と、最後に槍を突き通されたわき腹の跡を彼らに示されたのです。血は出てはいませんが、そこには明らかに大きな穴が空いていたと私は信じています。
そしてさらに言われます。
「平安があなたがたにあるように。父が私を遣わしたように、私もあなたがたを遣わします。」
この言葉も、弟子たちだけではなく私たちにも向けて語られています。しかし、どうやったら「平安」があると言うのでしょう。いいえ、どうしたら「平安」を持つことが出来るのでしょうか。立ち上がって出て行くことが出来るのでしょうか。
その答えがこの言葉なのです。
「聖霊を受けなさい。」
明日も続きです。》