◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書20章19節~22節】
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父が私を遣わされたように、私もあなたがたを遣わします。」
20:22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
◎メッセージ【2021年標題聖句から「平安があなたがたにあるように」】
《新年明けましておめでとうございます。2021年の標題聖句は、ヨハネの福音書20章21節と22節になります。今日は、この箇所を含めた聖書箇所から学んで行きます。
「その日」とは「週の初めの日」、今で言う日曜日にあたります。ユダヤでは、午後6時から新しい一日となりますから、主イエス様がすでに復活されたその日の夕方のことです。
主イエスの十字架刑が執り行なわれたのが金曜日。午後3時に息を引き取られ、埋葬されたのが午後5時頃。そして安息日の土曜日になります。その時には二手に分かれていた使徒たちは、週の初めの日に、トマスを除いて同じ場所に集まっていました。おそらくエルサレムにあるヨハネ・マルコの家であって、三日前に「最後の晩餐」を主と共に過ごした場所です。
さて、エルサレムでは、「『弟子たちが夜やって来て、われわれローマ兵が眠っている間にイエスを盗んで行った』と言ううわさが広まっていました。それゆえ弟子たちは、「ユダヤ人」を恐れ、カギを閉めて、ひっそりとなりを潜めていたのです。彼らが恐れていた「ユダヤ人」とは、最高議会に所属する当時の権威・権力者たちを指しています。しかし真理は一つです。彼らは人を恐れたのです。
それだけではありません。すべてを捨てて従って来た主イエスが十字架にかけられ死んでしまったのですから、彼らはこれからどうやって生きて行くのか、行く先々の未来を恐れたのです。
そこに、突然、主イエスが現われます。カギが掛かっているにもかかわらず、彼らの真ん中に立たれるのです。そして言われます。
「平安があなたがたにあるように。」
「平安」とは、「無事で穏やかなこと」「安息であること」と広辞苑は解釈しています。使徒たちは、主イエスと共に奇跡と不思議に満ちた約三年半の公生涯を歩みました。その彼らでさえ恐れたのです。恐れは不安を引き起こします。
主イエス様は十字架にかけられる直前に、弟子たちにこのように約束されました。
『「私はあなたがたに平安を残します。私の平安を与えます。私は、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。」』と。 主イエスが言われる「平安」は、「私の平安」であると言うのです。それはこの世が与える平安とは違うのです。この世の平安とは、富と地位を表わします。それでは、主が言われる平安とは何なのでしょうか。その答えが、「聖霊を受けなさい。」と言う言葉なのです。
主イエスは、弟子たちに「聖霊」については、このように教えられました。
『「私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでも、あなたがたと共にいるようにして下さいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたと共におられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」』と。
ここから、主イエスが言われる「私の平安」とは、「聖霊」なるお方であることが分かります。主イエスの霊であり、創造主なる神様の第三位格なるお方が共にいて下さる、しかも私たちの内に住んで下さる、これこそが本当の平安なのです。それだからこそ、主は弟子たちに、「聖霊を受けなさい」と言われたのです。
あなたは、私は、本物の「平安」を持っています。そして私たちは真実と真理を知っていると言うことです。創造主なる神様が、私たちの中に住んで下さり、共におられるのです。 世界は、日本は、新型コロナ・ウィルスのパンデミックによって、非常に厳しい時代を迎えています。しかし、そうであっても、世界の真の支配者は主イエス・キリストです。悪魔の武器は確かに「死」ですが、主イエス様は復活によって死を滅ぼされました。主はいのちです。主を信じる者は「永遠のいのち」を持っています。
このお方がすべてを握っておられます。このお方は私たちと共におられます。だからこそ言われるのです。「平安があなたがたにあるように。」と。』》